2011年3月18日金曜日
善き生
地震などで思った事メモ。
結局人間は自分の一番善いと思った事をやったらいいのだ。
ボランティアしたくてしたくてたまらん奴は、そこに自分探しを求めようが自己実現を求めてようが、人から何を言われたって「今自分はイイことしてるんだ!」っていう意識でおるなら耳に入る筈も無く。客観性も無く。
それを批判する奴は批判してる自分・行動には出ない自分を何とか肯定したくて、行動しない事が最良の選択だと思い込み。
献血とか募金とか、間接的な行動で何かをした気になる奴はそれはそれで役に立ってるから・これが最大限の自分の努力だから、と。
誰も皆、自分の行動の善さを信じたいのだ。
結局どの行動にも否定と肯定は付いて回る。
俺はマスコミなんてマスゴミだと思う。
視聴者と自分達の興味や好奇心を満たす為に、「真実を伝えなければならない(キリッ」という思いの下、道徳心や義侠心やらの間で、マスメディアとは何ぞやとか色々葛藤しつつ報道の現場に居るのだろうけど、
俺は誰かの悲しい顔を見た所でポジティヴ、アクティヴな方に向かう人間では無いので、「悲しい顔を喰い物にするのが報道のスタンスならば、真実とか現実なんて知らなくていいし、知る価値も無い」という柱がある。
そこの部分は、たとえメディア側にどんな立場があって説得されても揺るぐ所では無いし、彼らだってそういう意見を悪く言えば蔑ろにして其処に立っているのだ。
罰するか否かは法律の担当する所だけど、
善悪は各々の心に依るしかない。
じゃ互いの批判なんて無視して、それぞれ最良だと思うことをしたらいい。
人から言われてなんかしなきゃ、と思う程度の事は、結局その程度の事であって、その人の最良では無い。各々が後悔の無いように生きる、生きられる状態こそが真の平和なのであって、戦争の無い状態が平和な訳ではない。
闘争の無い事を平和と規定するなら、枯葉剤なり麻薬なりを全世界に満遍なく撒いて、皆主張の言えない世界を作るのが一番だ。
行動原理がなんであれ、自分の為に一番善い事が周りの為にも善い結果になるんじゃないだろうか。
善い結果にならないなら、多分それは「自分」という存在の中に「他者」をきちんと含んで考えて無い、まるで「自分」が「自分」のみで構成されていると思い込んでる馬鹿な判断なのだ、多分それは最良・最善ではないということだ。
善き生を心掛けろ。
募金をするのだって、それはまず自分の生活をきちんと送れてる奴のやるべきことなのだ。
親の金で喰わせて頂いてる餓鬼が、善人ぶって募金をするのは本当に最良なのか。
きちんと健康的な生活を送れてない奴が、ギリギリのラインで献血を行うのは本当に最良なのか。
とか何とか考えつつ、私は知人が東北出身だと知ってしまったので、存在の架け橋を作ってしまったので、ファミマのファミポートから500円募金したった。
軽薄で、でも臆病で、優しくて、という自分が大好きなんだろう、屑が。メモっとこう。
0 件のコメント:
コメントを投稿