2011年6月17日金曜日

女を追う男、性が呼び起こす恐怖『グッバイ艶』と『密会』

たまたま連続で読んだ本のテーマに相似を感じたので、
まとめと感想を二冊まとめて。


『グッバイ艶』/南川泰三
放送作家である著者と、
亡くなった妻・艶との、出会いから最期までを描く、半自伝小説。

帯文の
「童貞だった僕は、酒を飲ませればだれとでも寝る女という言葉を信じ、艶との出会いを果たした。」
と書かれているものに惹かれて読み始めました。
作者の童貞喪失を描く、青春恋愛小説かなぁ、と。

で、ちらりと読み始めて呑み込まれました。
最初読み始めた時は、最愛の妻との日々を小説として売り出すなんて、
なんて恥知らずな「愛妻家」なんだろう、なんて思っていました。

しかし、まずその描写の精緻さに驚かされました。
仮にその内容がフィクションだったとしても、
自分の心の中に中々ここまで「ヒロイン」を住まわせるのは難しい。

本当に愛があったんだなぁ、と思わせる、
艶との生活の、細部に至るまでのリアリティと情熱。

けれども、ちょっと前にも書いたように、「愛してる」だの「好き」だのと、甘甘だけで、無難に暮らしていくだけでは、その愛は有り得なかったように思います。

放送作家である著者の「やりたい事」、
仕事への理想や妻以外の女を知りたいという欲求、理論と欲望に裏打ちされた男性的な世界と、
愛酒家で、死にたがりで、快楽主義者で、文学的世界観を好む艶の「愛と憎悪」、
感情と欲望に裏打ちされた女性的な世界は、絶対に共存する事は有りません。

二人はぶつかり合い、傷付け合い、本当に血塗れになりながら、
艶の死というラストに向けて夫婦生活を続けていきます。

ぶつかり合い、傷付け合い、互いを理解する。
少年漫画、少女漫画なら其処で愛なり友情なりが芽生えてハッピーエンドの筈なのです。

艶の死後、著者は「あるノートの切れ端」を見つける。
今まで最大の理解者を自負していた筈の自分が、愕然とする艶の思い、過去。

愛の逆が憎しみであるなら、話は簡単なのです。
また、愛を貫き通した事で、何か結果として残るモノがあるなら、
「愛」は確実に実在を証明出来るのです。
しかし、僕らの生きる「現実世界」では全ての物語が自分という主観が終わるまで、
死ぬまで「エンディング」等という生易しいモノは有りません。


愛は本当に美しく尊いのか。破滅的な状況から人は何を見出すべきか。
一見、妻に振り回され、彼女の思い、心の底を追い続けた筈の夫が、最後に手にした物は何だったのか。
異性と付き合い、結婚し、子どもを遺し、その成長を見ながら老いていく。
そんな「人として当たり前に目指すべき幸せ」を怖い、と思わせる。
この小説はラブストーリーでもヒューマンドラマでもない、ホラー小説です。
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『密会』/安部公房
ある夏の未明、眠っていた主人公夫婦は突然やって来た救急車に叩き起こされる。
そして、何の健康上の問題も無い妻は、その救急車によって何処かへ運ばれて行く。
妻を追って、主人公は病院に訪れるが、次第に彼はその病院に呑み込まれていくこととなる。

主人公が病院で出会うキャラクター達は、何処かがおかしい「変な人達」です。
広大な病院を盗聴する事が仕事の警備主任、
二本のペニスを持つ馬人間、
試験管ベイビーの女秘書、
溶骨症の少女、
<仮面女>と名付けられた女。
異様な人間達でありながら、その変さは「性に関わる」という点で共通しています。

閉鎖的な病院という一つの社会の中で、
変な人間達に関わる事で主人公は螺旋の様により変な状況に巻き込まれていきます。
妻を探していた筈なのに、どんどん自分自身の行方が分からなくなっていく主人公。

社会に受け入れられる為には、社会から要請される「役割」を享受しなければなりません。
一家の父として収入を得て家族を養っていく。
一家の母として家事をこなし子どもの面倒を見る。
社長として会社の決断を行い部下に労働の対価を支払う。
社員として上司の命令に従い報酬に見合うだけの労働を行う責任を全うする。
社会はひとりひとりが己の役割を自覚し、
こなしていくことで成立しているのです。

「病院」という社会に身を置き、要請されるべき「一員」となる。
そうすれば主人公は「患者」という、一員になれたのです。
しかし、彼には何としても達成しなければならない
「妻を見つけて連れ帰る」という「仕事」があった。
その仕事が、彼を一員とさせない最後の砦として残っていたからこそ、
社会の要請を無視して自分の仕事を優先したからこそ、
彼は社会に拒絶されて、地獄に堕ちていくのです。


自分が病気であることを認め、申し分のない患者になることを、あらん限りの声で訴えつづけた。

認めるべきか、認めざるべきか。
楽な方へ流れるべきか、自分の主張を貫くべきか。
獣か、人か。
実を食べてしまったからには、既に人は不死に非ず。
楽園を追い出されて、終わりの無い人間地獄を生き続けなければならないのです。


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友人から、行動心理学の講釈を受けました。
この学問は「全ては行動に因るものであり、『心』という観測不可能なものは存在しない」
という所を目指す学問。
つまるところ、全ての結果は原因が生み出すのではなく、
行動が生み出すのだ、とい学問だそうです。

無論、コレは個体差について述べる学問ではありません。
しかし、僕にはどうしても『心』が、情報を処理する為の脳の機能の一つ、だなんて言えないのです。

男と女があって、
世界中至る所で、傍から見れば馬鹿馬鹿しい話を繰り広げ続けて。
しかし、幾ら精密に作ってあるゲームでも、その馬鹿馬鹿しい話の一部分を切り取ることしか出来なくて、
精々、一つのイベントに対して取れる選択肢・行動は多くて10通りもあればイイとこ。

その馬鹿馬鹿しさに反比例して、何なんでしょうか、
このゲームの難易度、選択肢の多さ。
何処かの漫画で言ってましたが、正に現実なんて「クソゲー」です。
恋愛や愛に限って言えば「クソギャルゲー」です。

ある時は一人の人間の世界をぶち壊すほどの絶望に突き落とし、
ある時は一人の自殺志願者に生きたいと思わせるほどの希望を与える。
そんな恐ろしいランダム要素を兼ね備えたモノ、「心」が果たして乱数・変数で数え切れるものなのか、制御出来るものなのかという疑問を抱いてしまう僕は、科学的思考が欠けているのでしょうか。

今回のはどちらもかなりドロッとした男女関係でしたが、コレ、『トゥー・エスプレッソ』なんかは真逆のサラッとした感じで、「男」と「女」二種類しかない筈なのにこんなにかけ離れたモノが出来上がる不思議。
➼当人にとっては大スペクタクル『トゥー・エスプレッソ』

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