2011年7月20日水曜日

現代における罪と罰『ろりともだち』

伊藤計劃さんの『虐殺器官』を読みました。
なるほど、帯に書かれている「現代における罪と罰」というコピーの逸品具合が分かりました。

でも少しだけ屁理屈をこねさせてもらうと、
虐殺器官は現代の延長に在る近未来の物語であって、それは物凄い情報量と創造力によって練られた「本当の延長上」のようなリアリティを持っているのだけれど、僕の様な狭い世界・価値観で生きている人間にとってはやはり「近未来の物語」という実感が残ったのです。

ひょっとしたら、今から挙げる作品に「現代の罪と罰」なんて二つ名を付けるのは凄く罰当たりなのかもしれない。
でも、僕にとっては『罪と罰』、もしくは『虐殺器官』のような、いや、それ以上に強烈な問題意識を抱えた立派な「現代の文学」に思えたのです。

※ネタバレあり
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タイトル『ろりともだち』で勘の良い人、もしくはその分野に知識の秀でた人なら連想するかもしれませんが、
この作品は「COMICエルオー2011年8月号」掲載のロリエロマンガです。

作者・クジラックスさんとの出会いは、
たまたま僕が就職活動を始める上で、雑誌という媒体に全く触れていない事に気付き、ダ・ヴィンチ、フェローズ、東洋経済、クーリエを一度に買ってみる、という狂気に走った際、よーしこの際あのLOも買っちゃうぞー、等とのたまい、ろくにエロ本も買ったことがないのでドキドキしながら(レジもお姉さんで緊張致しました)購入した号にたまたま掲載されていて気になる!と思った作家さん。

『らぶいずぶらいんど』、視覚障害者と小学六年生の女の子とのふれあいを描く佳作。
勿論LO掲載の為エロマンガではありますが、何とも切ない物語。
物語としてのクオリティの高さからか、ウィキに作者のページも無いのに作品のページが、という少し異様な状況に。
らぶいずぶらいんど - Wikipedia
現実に在った事件を下敷きとしており、この作品からも単にエロマンガを描く、という以上の作者の問題意識が漂って来ます。

佳作を打ち出すにも拘わらず、いや、佳作を打ち出すからこそ寡作の作家さんらしく、
「らぶいずぶらいんど」掲載号から約一年。
今回の「ろりともだち」掲載と相為った訳ですが。

心臓をギュッと掴まれた。

エロマンガな訳ですから、当然エロの描写は在る。
しかし明らかに他の作品と「狙い」が違う。
「エロを描く為のエロ」じゃないのです。


あらすじ。

僕・赤井は、大学のオタサーの新入生歓迎会で
「小学生レイプしてええええ」と叫ぶ馬鹿・山崎君に出会う。
赤井はロリコンではあるけども、一般的な倫理観も併せ持っている。
山崎はガチのロリコンで、PC内にいけないファイルが一杯入ってる。ちょっとタガが外れている。
赤井はバイトもして単位も取って実家暮らしで、程々にロリコン。
山崎は裕福な家庭のせいか、バイトもせず単位も取らず、でも悲観せず楽しげにガチオタ道を極める。
段々赤井は山崎に感化されていくし、
山崎は山崎で理解者の赤井が側に居るのが嬉しい。

要するに二人はロリコンというゴミクズの道を極めていく、糞ったれモラトリアム大学生なのです。
多くの大学生が「私は学生生活を通して~をやり遂げました!」「~な人間に成長しました!」と元気良く発言する裏では、
また多くの学生が何者にも成れず何処にも行き場が無く「大学」という猶予期間を終えてしまいます。
この作品は、その何者にも成れなかった者達の中で、ロリコンという趣味を持っていた人間達のお話です。
文学とそうでないモノを隔てるものは何か。
小難しい理屈をこねつつも、結局「名作」とか「受賞作」とかという所に沢山の人が引っ張られているように思います。
そうではないのです。
勿論、時代に流されなかったからこそ、名作は現在でも名作足り得てるのだし、人の心に何か響くものがあるからこそ、受賞作は一定の評価の証としての賞を手に入れてるのだと思います。


僕は人文系の学問の扱う諸問題は、次の詩に集約されていると考えています。

何のために生まれて 何をして喜ぶ
分からないまま終わる そんなのは嫌だ

そうです、やなせたかし先生は偉大です。

生きる上で欠かせない要素について、
問題提起し、思考し、思索するのが人文系の学びです。

しかし、その中でも「文学」とは、文を学する、ということ。
その文に学ぶことがある事。
その文そのものが学をしている事。
人の心の内に飛び込んで、その人の心の中で、脳味噌の中で、血の中で、肉の中で、暴れ回り、価値観を乱し、宇宙と自分とを混ぜ合わせ、他人との間に問題という壁を築くような何かを持った文こそが、僕は「文学」だと思うのです。

だからこそ、僕は『ろりともだち』は文学である、と叫ぶ。

もうオチまで全部言ってしまうと、
意気投合した馬鹿二人は実際にアクション起こす
→何人もの少女を餌食にする
→二人で練炭
です。

先に言っておくならば、僕は別段LOを購読している訳でもないし、
エロは好きですけど、ロリ属性が強くないとダメ、という偏りもありません。

前作『らぶいずぶらいんど』は、悲しいエンディングを迎えるとはいえ、ラブラブな雰囲気でした。
けれども実際問題、幼女が成人男性に惚れてラブラブな性行為、なんて有り得ません。そんな事は読者の八割方が了解済みのファンタジーなのです。未成年への性的虐待が憎むべきモノである、なんて頭で分かってる人がほとんどだと思います。
ファンタジーだからこそ、「LO」という雑誌が必要とされるのです。

本作の主人公「赤井」も多分LO読者良識派。
憧れはあるけども、やっちゃダメなことはダメ。
タガの外れたもう一人の主人公、「山崎」に引っ張られるようにして、ロリコンの暗黒面へと堕ちていきます。
では山崎が諸悪の根源だったのか。

山崎は、その志向性・指向性・嗜好性さえ除けば「スゴイヤツ」です。
多分その熱意や技術、革新性やガッツが別の方向に向いたなら、一般的社会でもイイ線いってそうなキャラです。
しかし、彼の趣味はロリータだった。
だから、彼の全ては其処に向けられた。
とはいっても、彼の趣味はあくまで「ロリ動画集め」に過ぎなかった。
「パワー」である彼を、後押ししてくれる、使ってくれる、方向性を定めてくれる「人材」が必要だった。
それが彼にとって「赤井」でした。

それならこのゴミクズ二人が出会ってしまったから、こいつらがゴミクズだったから、こんな物語が生まれたのか。
赤井は女児達をレイプしながら夢想します。
自分は普通に大学を卒業して会社に就職して、山崎は大学に留年して、
山崎がコミケに漫画を出したいというので赤井はその明日に向けての準備を手伝う。
山崎は大学を辞めたい、とこぼし。赤井は会社が辛い、と愚痴る。
女児に近付けるバイトって何か無いかな、と二人は議論する。
同人誌を出す、って事は何の成功でも無く、一つの趣味の突き詰めに過ぎない。
でも二人は楽しくその準備を進めていく。

この「ifの物語」は女児レイプの背景のモノローグとして描かれます。
正に「此処とは違う何処か遠い世界の話」として。

ココで読者は一つの可能性を考える。
いや、こうやって「もし」として考えられている世界が本当に起きてる世界で、
この『ろりともだち』という作品は、彼らの妄想の世界の出来事なんじゃないか。
だって、こんな無計画な行動で警察に捕まらない訳ないもの。
女の子達は一人として血を流してないもの。


僕達は「人間」という種類の生き物で、
この種には生得的に「集団を維持する調整能力」が備わっているそうです。
他者の様子を伺う能力、他者を類推する能力、信賞必罰を計算する能力。
だから、妄想を具現化しない。
それによって傷付く人が居るから、自分がされたら嫌だから、自分自身が「罰」によって追い詰められるから。
そうした「調整能力」が理性として働いて、妄想は妄想のまま封じ込められるのです。

でも誰しも妄想した事がある筈。

世界の支配者になる。
信じられない程金持ちになる。
実は自分は過去に滅んだ一族の末裔で、ある事をきっかけにその血が目覚める。
時間を自由自在に操る。
突然飛び込んできたテロリストに自分だけが秘めた能力を発揮してクラスメイトを守る。
透明人間になる。
異性が誰彼構わず自分の事を好きになる。
自分の大好きなあの人が、自分だけを好きになる。

それを本当のものにしてしまえたらどんなに楽しい事か。
でも自分の生活を、他人の生活を脅かす危険性がある、と想像し、ブレーキをかける。
そうして、普通は頭の中だけで終わらせる。

なぜアクションに出たロリコンは否定されるべきなのか。
其処には傷付くロリータが居て、ロリータは肉体的弱者で、保護すべきだから。
本来欲情すべき成人女性には目を向けず、敢えて弱者であるロリータを対象とする卑怯者・異常者だから。
当たり前だと思います。
けれども、マルクスが述べたように、僕らは資本主義社会の中で生きていくことで、必ず誰かの時間を奪いながら、誰かを傷付けながら生きていきます。
其処には「大人」と「子ども」のような、「強者」と「弱者」の関係が存在していて、でもその関係に善悪や正義云々はありません。その関係に目をつむり、ロリコンを糾弾すれば、僕達は善人になれるのか?

何が言いたいかと言えば、
コレはロリコンという狭い枠の物語では無く、
自分達全てにこういう側面がある、可能性があるという事を忘れるな、自戒の物語として捉えるべきだと僕は思うのです。


僕ははっきりと児童虐待・性的暴行といった「悪事」は「悪事である」と認識しています。
ではその悪事が何故悪事なのか?
妄想を具現化する事を考えるのは、倫理的に間違っています。
しかし、「悪事」について考えることを放棄し、ただただ「悪い」と糾弾する事は妄想を具現化する事と同じ位悪い。それは安易な他者否定に過ぎません。

犯してはならない罪があって、其れに対応するのは命を以って償う以外無いので、罰として死が存在する。そんな馬鹿げた論理をこの作品の中に発見するのは、ただの馬鹿です。
そうではなくて、
赤井と山崎が如何に普通の男、普通の人間であるか、かなりリアリティを以って描かれた「部分」を作品全体から感じ取って欲しい。

『罪と罰』のラスコーリニコフが、『人間失格』の葉三が、何故粛々と語られるような作品の主人公と成り得たのかといえば、それは別段彼らが「英雄」だったからではなく、「普通の人間」だったからです。
倫理的に間違った事を犯している。そんな当然の事は、主人公たる彼らも読者も分かっていて当たり前で、何が罪で何が罰だ、と断ずるのは最早馬鹿馬鹿しいレベルではないかと思うのです。

妄想を誰でもする。
倫理的に間違った妄想も在る。
僕らは、文学や漫画、映画の主人公達に其れを実際に行ってもらう事で、妄想が晴れたという爽快感を得ると共に、実際に起こしてしまった者の心中を追体験する。
無論、作者が行った事を物語化している訳ではないので、たくさんの取りこぼした描写があると思います。
しかし、その「心中を追体験している程のリアリティが在る」からこそ、僕はその作品に「文学」を感じるのです。

『ろりともだち』は文学。

クジラックス先生の作品、単行本化が待たれます。


同じくエロマンガを元に語った記事。
➼芸術とそうでないモノ『かっこいい自転車』

何者にも成れなかった奴らがおっさんになった時の話。
➼飛べ!雌豚!『あぜ道のダンディ』

3 件のコメント:

  1. 私は日本語ができないが、この記事では、本当に良いと思います。
    明確な関係を分かるようにしくれてありがとうございます。

    Googleの翻訳がよくされている分からないですね

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  2. thank you very much!
    for reading this report, although you dont understand Japanese!!

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  3. とても整理された見解で読ませますね。
    ただ1つ明確にピックアップしてほしかった部分は
    「赤井の方が山崎より先に現実に走った」点ですね。
    それまでは山崎は常識をわきまえた行動をしています。
    きっかけを作ってしまったのは傍観者を決め込んでいた主人公の方なんですよね。

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