概念の定義は難しい。
例えば生、例えば死。
愛とか希望とか夢とか絶望とか勇気とか哲学とか読書とか神とか悪魔とか
其れそのモノに触れる事が出来なくとも、この世に山ほど存在する「概念」。
様々な時代の、様々な人が色んな定義を残し、色んな本を遺しているというのに、
一向にそれぞれの概念について論じる事が止む気配はありません。
僕が思うに、
全ての概念は結局の所自分で「あっ、なるほど」と納得するまで
論じる当人にとっては定義付けられないものなんじゃないかと。
各々の血肉に、真理になるまで、概念は其処ら辺をフワフワと浮かび続けるのです。
そんな概念の内の一つ、
「芸術」とは何じゃらホイ、とある実例を通して考えてみようかと思います。
芸術の定義を語るのに丁度良い本が一冊。
ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』。
この本によると、芸術作品はどんどん複製が可能になった段階で
「芸術」と「現代芸術」に分化して、
芸術として求められる価値観が変化した、とあります。
例えばダ・ヴィンチとかレンブラントとか、ちょっと飛んでゴッホとかモネとかルノワールとか。
こうした「芸術」はいわば「永遠」を求めていて、
その絵画の持つ神性・宗教性・今ココに在るという一回性・作家に対する評価・歴史がそのモノを芸術たらしめていました。
しかし、「現代美術」の登場、
ピカソ、デュシャンに始まり、岡本太郎、ジャクソン・ポロック、ウォーホール、リキテンシュタイン、村上隆等など。
彼らの作品、「現代美術」は本来の使用状況からその状況を引き抜かれたような、自分の常識が打ち砕かれるような、生々しい程の「今」を描き、
非日常性・政治性・斬新さ・既存の価値観、倫理、歴史の否定によって芸術性を獲得しています。
もう一つ。
WEBマガジン「VOVO」上での照沼ファリーザへのインタビューで非常に興味深い事言ってたので。
"私はアートとかを特別視している人がすごい嫌いで…、そもそも商業的なものとアート作品とを分けて考えること自体が意味分からない。これはアート、これはアートじゃないとか分けてる時点で、その人はアホなんだなと思いますね(笑)
(中略)
AVより不自由なアートなんてよく分からない。そもそも私の作品についていえば見れば分かると思うんですけどね。自分で判断することができないからカテゴライズに逃げる。そういう人が多い気がしますね。アートなんて言葉は無くした方が良いかもしれない。"
AVでのお仕事もされてる彼女ならではのお言葉。
自分が「アートっぽい」と思えばそれはアートで、そもそもそういう「言葉」がしゃらくさい。
納得。
で、本題です。
コレはアートでしょうか?
町野変丸という漫画家。彼は主に成人向けの漫画を書いていました。
その20年間の漫画家生活中、モチーフはほぼ同じ。
「ゆみこちゃん」という女の子が、朝学校に遅刻しそうになって急いで走っていると、ドーン、ぶつかりました。
ぶつかった相手が漫画によって異なり、
宇宙人だったり、変質者だったり、ミイラ男だったり、透明人間だったり、妖怪だったり、ロボットだったり…
で、相手に犯されます。
ゆみこちゃんは「やーん!」とか言いながら、どんなに強烈に犯されようと、痛めつけられようと、肉体改造されようと、「ふぅー気持ち良かった!」とか何とか言いながら特に気にせず生活を続けていきます、終わり。
延々こうした情景が繰り返されます。
読者は
・どんな思わぬ相手とぶつかるか
・どんな思わぬバトルっぷりになるか
を延々楽しむ、という漫画群なのです。
本書は
・お父さんが自転車を勝手にSOD風に改造
・船乗り
・よく分からん兄の同級生
・俺があいつで、あいつが俺で
・身体検査
・戦車級
・メイド
・ヌルヌル
・奇跡
の九本仕立てですが、まぁそんなにいつものと違う訳じゃありません。
何故か成年マークが付いてませんが、表現が抑え目とかそんなことは全くありません。
で、アートに関してですが、身も蓋もない事を言えば現代美術は「アイデア勝負」なのです。
その作品のバックグラウンドに、作者以外がどれだけ意味性を見出せるか、共感出来るか、が芸術とそうでないモノを分け隔てるのではないかと思うのです。
例えば町野変丸の作品を
・オタク文化を象徴的に描き出す、「ゆみこちゃん」のカワイイデザインとその他の存在のデフォルメ的デザイン
・日常に潜む非日常性
・人体破壊のアイデアの限界に挑み続ける思考実験
・同じモチーフを繰り返す事で、より「アイデア」の輪郭を浮かび上がらせる挑戦的行為
・また、モチーフの繰り返しから強調される大量生産・大量消費社会
・エロティック≒グロテスク≒ナンセンス
とか何とか言って評価をする「評論家」が居れば、
彼の作品はもっと芸術として評価されているのではないでしょうか。
いや、現に村上隆率いるHIROPON FACTORYなどでアーティストとして海外や国内で芸術活動を行っているという、立派な「アーティスト」なのです。
僕は彼の作品に「芸術」は全く感じません。
しかし、「村上隆やデュシャンを芸術として評価する下地を感じた時」、
町野変丸の作品に芸術を感じるのです。
とは言ってもやっぱり「エロマンガ」としては評価が低いらしく、
2007年に漫画家は廃業されてるみたいです。
確かにこれで興奮しろ!って言われるとちょっとキツイものがあります…
面白い、でもその面白さが故に発表の場が無い、とは何とも寂しい。
この漫画家を知った永山薫さんの著書
でも述べられていましたが、「エロさえ混入させれば何をやっても良い場」がエロマンガ誌であった時代は既に過ぎ去り、これからはどんどん「時代に沿った倫理観を持った、一定のエロ需要を満たす場」としてしか存在しなくなっていくんでしょうね…
エロを描く為のエロマンガでないエロマンガ、最早文学。
➼現代における罪と罰『ろりともだち』
真に「芸術の為の芸術」とは存在し得るのか。
➼孤独の美学『アウトサイダー・アート 芸術のはじまる場所』
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