Subbacultcha

「サブカルチャー」という括りの下、文学・芸術・漫画・映画等について述べます。

2010年6月27日日曜日

日々のうた








2010年6月20日日曜日

グラグラな社会とグラグラな僕のまんが道


 

僕の小規模な生活などのエッセイ漫画で有名な福満しげゆき初の活字本。
 
 ダウナーな生き方はあんまり良くないと思います。食う為に生きる、引いては死ぬ為に生きる事に繋がりかねないからです。でも、ダウナーな創作物はアリだと思います。製作者にとっては問題を新たに捕え直し、その解決のきっかけになり、受容者にとっては共感から孤独感を薄れさせたり、同じ問題でも違う視点が有る事を発見したり出来るものに成り得るからです。絶望を描いてるはずなのに、作ってる側・受け取る側共にメタ的には希望を得ちゃう。

 で、福満さんの漫画の主人公達はスターシステムというか、ほとんど同じ様相・性格を持っていて、エッセイの方もほぼ同じキャラで自分を描いてるので、ある程度作者自身の姿が投影されてると思われるのですが、こいつらと来たら、大抵、自分に積極性やコミュ力が無いせいで上手くいかなかった物事を他人や境遇のせいにしてそれを恨む、という素晴らしい社会不適合っぷり。でも、すごく内省的で、落ち込み易く、憎めない。欲求があるのに、うまくそれを実現出来ない。悲喜劇的、チャップリン的なのだと思います。

 僕の家はそんなに貧乏では有りませんでしたが、それでも自分より何かを持っている人が羨ましくて仕方ありません。能力、容姿、人間関係、金銭。福満さんはそうしたもの全てを少しでも自分より持つ人間に嫉妬し、起爆剤としています。誰でも持っている欲望、嫉妬を包み隠すこと無く描く所にこの漫画家の魅力があります。
 
 無論、それらを満たしながらも素晴らしいものを作り上げた人達は居ます。三島、芥川、太宰。何故「持つ者」にも関わらず、彼らが作り上げたものが素晴らしいか。僕は彼らがそうして持てる物に価値を見出さず、追求し続けたハングリー野郎だからだと思っています。
 常に飢えている事、飢えが巨大である事。境遇や生き方ではなく、それをどれだけ内に秘めているかが、その作者の創作物の魅力を決定するものではないでしょうか。福満さんの漫画には、そうしたハングリーさに満ち溢れています。極めて優れた内省的漫画家。しかも分かりやすい。 


 漫画の方でも度々ネタにしていますが、福満さんがどれだけうじうじした青春時代を送って来たか、社会にどんな不満が有るか、どれだけ満たされてないか、が延々書き記されています。正直漫画でやった方が良かったんじゃないかなーと思います。しかし、彼の漫画を読んで共感してしまった非リア共は、改めて彼の文章に直に触れる事でニヤニヤしたり、もにゅもにゅしたり、もりもり出来たりするのではないでしょうか。
 長々と書きましたが、ファンブックだと思います。漫画を未読の方はまず彼の漫画を。


2010年6月17日木曜日

コラージュ

 最近、いとうせいこうの参加している□□□(クチロロ)というヒップホップユニットの「ヒップホップの初期衝動」という曲を聴いてはっとすることがありました。
□□□ - ヒップホップの初期衝動

「そのシンプルさに俺は強く感動し、歩く速度のそれぞれの四拍子、言葉と足が絡み合うようにし、あらゆるアイデアにヒップホップ応用し」
 好きなら、何でもそれを適用してみろと。
 人が作ったものには何らかの意図が存在しています。その意図が金儲けだろうと性欲だろうと、何らか作ることの根拠が存在している訳です。好きになったなら、それ位読み取れて当然。じゃあ読み取って何をするか。その他の生活の部分にそれを応用してみるのです。

 無意味な事は何も無い。要は何処まで考え続けられるか。意味を見出せないなら、確かにそれは無意味です。即刻、やめた方がいい。でも、何かの意図をそこに見つけたなら、それを感じる事は決して無駄じゃないという事を後押ししてくれる様な、力強いメッセージ。
 ちょっと元気になりました。

 歌詞が「はじめに言葉ありき」という世界一有名な引用から始まるのですが、聴く人の精神状態によっては同じ聖なる文言として受け取れるほどの輝かしさがあります。

2010年6月14日月曜日

少年少女漂流記



 乙一と古屋兎丸のコラボレート漫画。新品で買わなくても良かったなぁと思います。
 乙一はジョジョのノベライズ、古屋兎丸はライチ倶楽部位しか読んで無かったのですが、どっちも非常に面白く感じたので、これは絶対面白いぞ!という期待感で読んだのがまずかったのかもしれません。

 「少年少女」と題打ってあるように、8人の中二病類型少年少女達を描く短編集。一応最終話はまとめとして一話に全員集合させてるし、群像劇と言い換える事も出来ます。
 ただ、最後に二人の対談が掲載してあって、「俺達の共通点って中二病だよねー」と書いてあっていらつきました。中二病というのは自意識にのめり込み過ぎ、自分ワールドを形成しちゃう状態を指すと思うのですが、そういったテーマの創作物に作者の意図を感じさせたら終わりです。読者に自分は中二病を俯瞰している事=中二病を上から目線で眺めている、のめり込んで無い人というのを説明しているようなものだからです。

 安直な中二病的を患ったキャラクター達の悩みは確かに深刻なのですが、悩み以外がぺらっぺら。だから感情移入する事も出来ず、作者に意図的に悩みを持たされている違和感を感じさせます。せっかく綺麗なラストなのですが、演じてる感バリバリで、綺麗ごと言いやがって…と思ってしまいます。

 多分読ませる対象が僕の様な現役中二病ではないのでしょう。かといって、過去中二病患った人たちを対象にしたものでもない。中二病の痛々しさをいとおしむ様な描き方ではなく、中二病ってこんな感じだよね、うんうん、という分かり切った(ような)観察者の視点からの描き方では、上記二勢力は納得できない。じゃあ誰を対象にしているのか。
 思うに、作中で主人公達を白眼で見ていた「きもーい」「不思議だよねー」という非中二病サイドが読むと面白い漫画なんじゃないかと思いました。誰しも、様々な思いを抱えています。非中二病サイドとはいえ、死にたい、鬱だという様な事は考えるはずです。そんな時この漫画を読むと、晴れやかな気分になれるんではないかと。あー、こういう事考えてたの自分だけじゃ無かったんだ!と。キャラ造詣の薄さはそういう一時的中二病の雰囲気。

 僕はあんまり好きでは無かったですが、最初に挙げた二作品は本当に面白かったです。ちょっと中二病言い過ぎた。


2010年6月11日金曜日

疾走、即ち人生『マインドゲーム』






アニメが実写に勝る部分には、スピード感と情報量があると思うんですが、
これってシュールレアリズムのダダを起し始めた人達が理想としてたテーマと重なる所が有って、「動く絵」ってのはそれそのものがシュールなんかもしれませんね。


2010年6月5日土曜日

京都旅行紀その壱

 京都に住んで居ながら旅行記もあったもんじゃないですが、昨夕の事です。
 休日と言えば十二時間位引き篭もるか、外出するかという極端な行動原理があるのですが、引き篭もっておりまして、よし、夕飯の買い出しついでに付近を散策しよう、と思い立ったのです。
 部屋を整理したいという思いも重なり、ティッシュケースとかなんかいっぱいポケットの付いた壁掛けみたいなのが欲しくなり、雑貨屋を探す事にしました。
 家が金閣寺周辺なので、大学も近くにあるし、隠れた名店のようなものがあるんじゃないかという期待があったのですが、もう全然無い。立命館・佛教大学と二つも大学がほぼ同じ地域にありながら、なんで雑貨屋如きが無いの?ビレッジヴァンガードを多用して、「サブカル大学生」みたいなレッテルを貼られるのは小癪ですが、雑貨屋が他に無いんだから仕方ない。俺は一瞬、将来自分の好きなもので埋め尽くしたお店を開こう等と血迷った考えをよぎらせました。
 しばらく、我が愛車エーリングリーン号(ママチャリ)を疾駆させていると、次第に民家が無くなってきました。
 良い感じの殺人事件が起こりそうなペンション風マンションを通り過ぎると、何という事でしょう、70年代のラブアンドピースを感じさせる『芸術村』と表記さるる看板が現出したではありませんか!若きアーティスト達が日々気に入らない完成品をぶち抜いたり、両刀使いになったり、ナイフで耳を削ぎ落としたり、ガンジャの煙の向こうにディオニュソスの姿を見たりしているのでしょうか!と少しワクワクした俺がバカだった。「宿泊・お食事・お土産」が至る所に列挙され、送迎タクシーが行き交う始末。けっ、何が芸術だ、反吐が出る。
 少し走ると、住宅街が現われ、秘境の様な雰囲気を醸し出していました。道路にはもう完全に歩道の形跡が無くなり、たまにすれ違うのはエンジンを持った乗り物ばかり。道はいよいよ本格的に傾斜を見せ始め、もう山って言っていいような感じ。よーし、行くぞエーリングリーン号(二年選手)。
 と思ったら、耳元のイヤホンから、キングクリムゾン30周年記念盤が流れ出す。ロバート・フリップの気持ち悪い位正確でかつ爆発的なギター。ジョン・ウェットンが「とぅぇんてぃふぁーせんちゅりすきっつぉーいまぁぁぁん」と歌いだす。ふと電柱の袂を見ると、初期のデザインに近い、目の小さい野原しんのすけの手製看板が二対。「あぶない」という吹き出しを掲げているが、危ないのはお前のそのあやふやな絵柄と著作権だ。時刻は午後七時。とは思えない程の明るさ。しかし、それらに加えて続く道の鬱蒼とした雰囲気。どうして、これで不安にならずにいられようか。
 かくして、本当に何を見つけた訳でもなく、帰路に着く事になったのです。散歩オブ散歩。