Subbacultcha

「サブカルチャー」という括りの下、文学・芸術・漫画・映画等について述べます。

2010年12月10日金曜日

全ての言葉を軽薄なものへ堕する『孤客 哭壁者の自伝』


僕の大好きな漫画の一つに『鋼の錬金術師』というやつがあります。
まぁ大ヒット漫画なので解説するまでも無いのですが、「努力すれば夢は叶う!」というテーマを最初の方は仄めかしつつも、「努力は叶わない事もあれば、やった以上の結果を生む事もある」という方へどんどんテーマをスライドさせていくのです。
やったらやっただけの結果が生まれる訳ではないという結論に至るからこそ、僕は少年漫画ながらこの漫画が大好きなのです。

でも、努力を重ねてもどうしようもない、自分で変える事の出来ない何かが有るとしたら?

2010年11月22日月曜日

京都国際マンガミュージアム『マンガ・ミーツ・ルーヴル―美術館に迷い込んだ5人の作家たち』展行って来た



マンガミュージアムに露伴先生が来ているッ!という事で昨日行って来ました。
ミュージアムのホール一つ分を展覧会会場として開放し、荒木飛呂彦、フレンチコミック=バンドデシネの巨匠、エリック・リベルジュ、ベルナール・イスレール等五人の漫画作家がルーブルを題材とした漫画の生原稿が展示されています。
スペース的な問題もあるかもしれませんが、一部屋分ということで、展覧会としてはかなり小さいものです。
一人一人の漫画が全て展示されているのではなく、描かれた漫画の中から見栄えのよいページを抜き出した展示です。

2010年11月15日月曜日

個人的な「アール・ブリュット」と「エイブル・アート」の違いまとめ

高校の終わり位にヘンリー・ダーガーと出会い、アールブリュット・仏語で生(き)の芸術、英語で言う所のアウトサイダーアートについて興味を持ち始めました。



ここで使われる「アウトサイダー」とは自ら選択して社会の外へ出た人達ではなく、社会によって「アウトサイドに在ること」を形作られた人達です。彼らが作るモノが何故アウトサイダー・アートと呼ばれるのか?

2010年11月9日火曜日

言語を学ぶ意味なんてあんの?『我的日本語』



留学してきたやつって、どうもムカつく。
それは海外経験のない僕の嫉妬フィルターもあるのでしょうが、
「やっぱ日本は狭いねー。アメリカでは~だったよー」
といったテンプレのような馬鹿は居ないまでも、
海外に一か月行った程度で人間レベルが上がったように言う奴が必ずいる。
ほんで、英語が喋れるだけで物凄い得意げになる奴。
『だけ』じゃなくて努力の結果だから威張ってもいいっちゃあ良いんですが、
小学校からの英語教育反対派の中でよく言われる「自国の文化もまともに習得してない奴が、他国の文化から学び取れるもんなんか大したもんじゃねーだろ!」という言説に僕は大賛成な訳です。

「言葉」の中には、思想・思考が自ずと含まれる訳で、
日本語の中に生まれ育ったからには、どれだけカバーしようが「日本語人」であり、
英語の中に生まれ育ったからには「英語人」なのです。


そうした僕の留学経験者への何となくのイライラを、リービ英雄さんは見事に形にしてくれています。

2010年10月31日日曜日

漫画も良いけどバンドもね『無限の住人』



雨が降りそうで降らない。
今日みたいに何とは無しに灰色の雰囲気が街に蔓延するような日には、気軽に爽やかな気分になれるフレンチ―やらスウェーデンやらのポップい感じのよりも、僕はHR/HMを聴きたいような気分に駆られます。
でもへヴィーなメタルはちょっと大げさすぎて、あまり展開が面白くないモノが多い。まぁそんな偏見から僕は言うほどメタルというジャンルに興味が無くて聴いてないのです。Horse the bandみたいのなら大歓迎。

「人間椅子」は大げさなカッコよさで技術をひけらかすメタルという音楽に、文学性と日本の民族性を追加した、謂わばスーパージャパニーズメタルバンドなのです。

2010年10月26日火曜日

「小説」の限界に挑め『実験小説ぬ』



パソコンが全盛期となった世の中でも、「手でかく」という人も一定数。なんとなーくですが、このちかちかするモニターというやつに面と向うより、紙に向き合う方が想像力が刺激されるような気がするんですよね。でも、手で書くと、手が疲れるし、また字を写し直さなくてはならない。修正も難しく、漱石先生の生原稿なんかきったないもんですよ。だから、皆パソコンで原稿を書く。

2010年10月19日火曜日

日本的空間に痺れる『赤い雪』



「自然淘汰」という言葉があります。弱いものはより強いものによって、淘汰されていく。
アメリカの強権によって、世界はどんどん英語化が進んでいきます。
中国の社会主義がひっくり返ったらどうなるか分かりませんが、今の所世界は英語化に向けて進んでいってます。

この狭い日本という国でも、どんどん方言が淘汰され、いわゆる「標準語」が幅を利かせています。僕は東京弁と言い張っているのですが、物事何でも基準が必要らしく、「よくテレビで使われる言葉」が日本語の基準となっているようです。
方言原理主義者的な僕は、現在関西在住ですが、関西弁に抗って、意地でも故郷の方言を話すように意識しています。
最近は大分そのシールドも剥がれかかっており、非常に気恥ずかしい日々を送っています。

僕は、「方言女子」がとても魅力的だと思っています。
この東京弁が幅を利かせ、その他方言がマイノリティとして退けられる理不尽な世の中において、胸を張って、「田舎から出てきたこと」をアピール出来るカッコ良さ。また、マイノリティであるが故にちょっと破壊できる、標準語で構成された日常のマンネリ感。
もっと、地方出身者にはがしがしお国言葉を使っていただきたい。その方が人間としての魅力が滲み出るのではないでしょうか。

2010年10月15日金曜日

本気で作りすぎると大抵ギャグになっちゃいます『ナイトアンドデイ』



ハリウッド映画はみんなから愛される一方で、一定数叩く声も存在します。
僕はハリウッド映画を見ていて、映画の中身が面白くないということではなくて、CG・VFX、セット、画面の特殊効果など凝りすぎてて、逆に白けるということがあります。
アレですよ、恋をしてる時はすごく魅力的に見えた相手のことが、いざ付き合ってみるとどうでもいいところばかり目について冷めてしまう、という割合理不尽な意見。

物事には何でもある程度の駆け引きが存在して、
押したり引いたりしないと、押すばかりではそれがどんなに良い押し方でも押されてる側からは飽きられてしまう。
というのを理解せずに、とにかくたくさん金かけろ!有名人使え!これもこれも入れた方が面白くなるんじゃね!ていう風に量産される大作映画。

どんなにいい脚本でも、「大作風」というレッテルが貼り付けられるハリウッド映画はある種可哀想とも。

2010年10月12日火曜日

『戦闘少女の精神分析』要旨「ファリックガールズが生成する」個人的まとめ



それでは戦闘美少女が如何にして生成したか、という本書の本論部分「ファリック・ガールズが生成する」をまとめていく。何度かこの章だけ読んだが、よく意味がわからない。度々引用されるラカンやベルクソンについて僕自身が少し理解をしておく必要がありそうだ。

2010年10月4日月曜日

魔法の指環なんか無くたって通じ合える『ソロモンの指環 動物行動学入門』



昨日は京都・ベジタリアンフェスティバル2010に行ってきました。
ほんわかした雰囲気と、美味しいベジ料理で楽しく一日を過ごしました。別に菜食主義を悪く思ってるわけではないのですが、まぁこれも一つの宗教な訳です。宗教と同じく、行うのは時間とお金のある人間。または、考えすぎて内省世界に没入しすぎた頭のいい人間。
故に後者が、自己の学問分野を越えて理論・学問・権威を背景とした主張を行い、それに説得されてしまった前者と共にコミュニティを形成しているのが現状のベジではないでしょうか。
昨日もちょっと笑ったのが、毛皮製品の採取方法を紹介したパネルを見たノーマルの同行者が「週一日菜食の日を作る」と言い出したこと。いや、それ以外肉食の日があるなら何の意味もないだろ、と。

なんか攻撃的というか、批判的に書いていますが、それは「地球のため」「動物のため」論調が苦手だからです。僕自身も高校生のとき屠殺の現状を知り、自分で生活するようになったら動物を殺さない生活をするんだ!と人知れず燃えていました。無論主張内容は違いますが、新興宗教の入信パターンとそっくりなんですよね。

1.「死」「不幸」といったショッキングなイメージを与える(屠殺、毛皮、環境破壊)
2.それを回避する方法の提示(入信のススメ)
3.実践者の声(既存の価値観とのズレを埋める)
4.みんなで世界を変えていこう!(共同意識)

結局の所目先の変化ではなく、将来の大きな目に見えない変革を目標に据えるとこんな事になってしまいます。
本当に動物の事を思っているなら私財を全部投げ打って家畜やペットを買い取って暮らせる施設を作るべきですし、政治家になって「肉食」という風潮を変えていくべきです。思いやりを持つ事は非常に大事ですが、自分が肉を食べないことで動物や地球に良いことした感を持つような、自己陶酔的なものになるのは嫌だ、とセミベジの俺は思うのです。

2010年9月22日水曜日

将棋漫画の形をしたバトル漫画『ハチワンダイバー 16・17』




「大きい」というのはもう、それだけで強い。
『ハチワンダイバー』は字がでかい、コマがでかい、汗がでかい、目がでかい、数字がでかい、乳がでかい。それらが何故でかいかと言えば、思いがでかい、思いが強いからなのです。(乳は違いますが)

そして、それらの大きさが漫画に勢いを付け、勢いが馬鹿馬鹿しさを押し切る事で、ありえねぇよって展開も爽快感を持って読者は一気に読み切れるのです。

2010年9月17日金曜日

リアル摩り減り系『マシニスト』


リベリオン、バットマンなんかで有名なクリスチャン・ベールが役作りの為に激痩せして話題になったサイコスリラー。
4か月で30キロ落として、その後の4か月で45キロ増量とか仕事にまじめな人は恐ろしいな…

2010年9月7日火曜日

超良作少年漫画映画『ヒックとドラゴン』




中学生の頃、Flashの全盛期で、ダンデライオン、Kといった楽曲のFlashを目にした僕は、BUMP OF CHIKENの持つ魔力に取付かれてしまいました。
今思えばそこが始まりだったのでしょう、そこからNirvana,LED ZEPPELIN,Radioheadなんかをちょびちょび聴きだして、僕はそれらの要素を見出せないもの、いわゆる「メジャー」なものを目の敵にし始めました。(それらもまたメジャー処である事を突っ込んではならない)中二病、と言われるものの症状です。

あれから十年近くが経ち、病は消え失せたんじゃないかと思われる今でも、根底にはマイナーである事、程々に人に知られていない事に価値を見出しがちのような気がします。

大多数の人が面白いというものは、僕には面白くない。

余りにみんなから「面白いよ、これ!」と言われると、逆に面白くないんじゃないか?という前提でそれに触れてしまう事があるのが自分でも欠点だなぁと思います。

実際、「みんなが面白いもの=宣伝に莫大な費用が掛けられている=商業主義が見え隠れ、作品の内容は最大公約数的な魅力が選択されて金太郎飴のような似たりよったりのものが多くなる」
という面もあるので、お金がかかって無い小規模なものほど、アイデアやストーリーに力を入れていて、メジャーなものより内容が良い、ってこともある筈。

しかし、天下のドリームワークスが作った『ヒックとドラゴン』、これ最高でした。

2010年9月4日土曜日

愛とそれを取り囲む環境と罪『人を好きになって何が悪い。』


バイト明けから、頭蓋の中から何かが生まれようとしてるんじゃないかと思うほど、くっ、俺の中の暗黒魔竜が目覚めようとしている…触るなぁっ!状態に陥り、ベッドに突っ伏す事およそ10時間、あぁやはり深夜は人間が活動する時間ではない、と思い知りました。寝たら大抵の事が回復する、生物の体は偉大です。

2010年8月28日土曜日

妖怪堂でお面作ってきました

今日ヤフーニュース見てたら京都は妖怪ブームだとか。
…今年じゃなくて、三年前から色々やってたよ!

先週日曜日、「妖怪堂」という京都の名物冥途カフェーにてお面を作ってきました。

2010年8月25日水曜日

当人にとっては大スペクタクル『トゥー・エスプレッソ』



もうすぐ九月だというのに滅茶苦茶暑い。
何処までエアコンを使い続ければ良いのか。
面白そうだなと思って買った漫画が秋っぽい雰囲気を湛えていて、もうすぐ九月だという事を思い出しました。

2010年8月18日水曜日

闇闇闇。『告白』


ほんとはジャッキーチェンのベストキッドを見るはずだったんです。
でも街に出たら何と言う事でしょう、二つも映画館が潰れていました。世知辛いなぁ。みんな何処に見に行くんだよ、映画。いや、DVD借りて、家で見るだけで満足してるのか?家デートってやつですか?ふ、ふん!寂しい奴ら!
調べてみると、ベストキッドが上映されてる所が現在地から結構遠い…。

故に僕達は面白いという前情報と、レディヘがテーマソングということで、未だに公開されていたのかと驚きつつもほいほいっとそこにあった映画館に入ってしまったのです。

すごくいい映画を見ました。

2010年8月16日月曜日

虐げられた者の不愉快な眼『空っぽの世界』



夏休み、帰省。
小学生ですら宿題、ラジオ体操、プールと過密な義務で忙しい時期であるというのに、日本の大学生のだらけた休みっぷりと来たら。などと言う前にたくさんやらねばならない事があるはずなのに、夏休みを謳歌するモラトリアマー(モラトリアムの人称形)です。

京都の下鴨神社という所では、毎年夏になると古本まつりという奇矯なまつりが行われていて、あっついのに関西一円から古本屋が集まって来て密集して本を売り、あろうことか客まで一緒に密集して、涼しげな鎮守の森を人の湿度と体温でむんむんにしちゃうイベントが起きているのです。今日、8月16日まで。
文学部であり、かつ面白いもの好きのワタクシは結局毎年何日か行っちゃいまして、ぼがーっと本を大量に購入、翌年の開催までにそれらを読み切らず、本と漫画が生活居住空間を圧迫、という悪循環を繰り返していたのです。
けれども、読みたかったあの本がこんな安価で!?という出会いの多彩さ故に毎年通っていたのです。

が、何と言う事でしょう。
実家に帰って来てみると、ブックオフの大型店舗が半額セールやってるじゃありませんか。しかも、ねこぢる、アドルフに告ぐのハードカバーをそれぞれ100円コーナーで発見、半額の計100円で手に入れちゃった。必死で、古本まつりで欲しい本を探したあの時間、そしてその金額。ハハッ。そりゃ、ブックオフ勝ちますわ。

本書も、半額で購入、270円でした。

2010年8月4日水曜日

世界に私窓から


 
 夏だ。

 午前五時。あっという間に夜が終わってしまいます。深夜に働いて良かったな、と思う事は、この時間帯の空がすごく綺麗だという事を毎日のように思い知れる事です。対して、8時位の日光のどんなに暴力的な事か。
 
 去年の今頃も、こんな風にこの時間帯にパソコンをパチパチやってたような、気がします。でも、その時住んでいた部屋の窓は、すぐ隣に建物があって、そこから見える景色は微々たるものでした。今はこんな景色を見れます。部屋から見える景色の変化は、そのまま気持ちの変化と言えました。あの頃の僕は、部屋から外を眺める度にまるでそこに誰かに押し込められたかのような心持がしました。リア充爆発しろ、等という陰惨な思いを抱えながら、鬱屈した大学生活を送っていました。
 まぁ今だってすごく充実するでもなく、かと言って社会から疎外されるでもない、何とも言えぬ生活からこんな時間にパチパチとタイピングをしているとも言えるのですが。窓から見た景色を綺麗だな、と思って写真に撮れる位には心に余裕が出来ました。

 さっき、この写真を撮った時、あと何回この窓から写真を撮れるかな、と思いました。
 
 夜明けの空を一枚、写真に収めると、デジカメのメモリが一杯になりました。
 
 何百枚でも撮れるし、一枚も撮れない。何だか俺の生活みたいだな、と思いました。

2010年8月3日火曜日

シュールか、グロテスクか『テハンノで売春していてバラバラ殺人にあった女子高生、まだテハンノにいる』


面白いものを見ました。

何故家政婦は敵にならなくてはならなかったのか『借りぐらしのアリエッティ』



劇場では千と千尋ぶり、映画としてはハウルぶりの久々のジブリ劇場視聴をしてきました。
映像の美麗さ、音楽の豪華さは流石劇場公開用アニメ。前評判の悪さも何のその、楽しく観れました。

ただ、ナウシカやもののけ姫を「ジブリ」と規定している自分からすると、少しジブリとしては薄っぺらかったです。そういったドラマ性も薄く、かといってトトロのように暗喩的なアニミズム、子どもの成長性も薄く。
素晴らしく小人のアリエッティは可愛いのですが、それだけ。アリエッティ萌映画でした。

2010年7月8日木曜日

至高のリライト『ドリフターズ 1』



あさりよしとおの言葉だったか、
「オリジナルなんてない。与えられた素材の中でどれだけ個性が発揮出来るかが作家性というものである。」
うろ覚えなので間違ってるかと思いますが、この物が溢れ返る世の中、完全にオリジナルたることは無理です。
自分がやってる事はやや違うだけで、世界の誰かが必ずやってます。
それでも出来不出来、順位、そして個性によってその「やや違う」が客観的には驚くほど別のものに成り得るのです。

終わらぬユキちゃんサーガ『クロなら結構です』


 流行は大体十年ごとに交代する、というのが僕の持論。
 オリジナル→脱却→リメイク→脱却→リメイク… というループは至る所に見られるんじゃないかと思います。ロックシーンでのいわゆる00年代と呼ばれた人達は、90年代の商業的・懐古的な所からの脱却を目指して、その一個前の80年代を元にして流行の電子系を取り入れていったイメージがあります。…あれ?それリメイクじゃね?まぁいいや。ダンスミュージックを取り入れ、シンセやエフェクタをガンガン使うことで、90年代に育ったキッズ達に「すごい!新鮮!」と思わせることに成功した00年代達ですが、困った。皆ダンスロックみたいになった。次の2010年代は何処に逃げ道を探す?
 そこで90年代日本のバンドブームのリヴァイバルです。ハードロック、パンク、J-pop。
 今、日本で受け出したバンドは確実にそこを押し出していってます。モーモールルギャバンの台頭はそれらを基調としている故の00年代のバンドの中での目新しさに原因があるのではないでしょうか。

 どうしようもなさ・駄目さの肯定。社会から自分への不当な評価。自己責任を大義名分にしながらいざとなれば人のせい。そうした「ゆとりっぽさ」は組織側からみたらもう、無用の長物所か邪魔で仕方が無い訳で、ある程度人間が出来たネットに左右されない程度の意思を持った人間なら、普段はそれを押し殺して生活してます。音楽を解放のツールとするなら、それを声高らかに歌ってくれる歌がどんなに価値のあるツールか。

 「非モテ」「駄目人間」をテーマとして、モーモールルギャバンはJ-pop臭いメロをまるで感情がそのまま吹き出して来たかのように、色んな表情で鳴らします。今作では、インディーズ時代の泥臭さを残しながらも洗練されたレコーディングにより「聴けるCD」としてモーモールルギャバンを聴く事が出来ます。ある程度曲調の好みはあると思いますが、これでロックリスナー以外にもちゃんとオススメ出来るようになりました。

 インディーズの頃から一枚に一曲、「ユキちゃん」に対するラブソングが入っています。大好きな彼女・ユキちゃんへのラブソングはやがて未練タラタラの失恋ソングになり、思い出となり、人の妻に成り。今作でユキちゃんは母となりその娘に恋慕するというアンモラル具合を増した歌になってましたが、ボーカルのゲイリーさんが心の「ユキちゃん」を捨てるつもりが無いのがよく伝わってきます。
 
 ユキちゃん=根源的一者=神という図式が崩れぬ限り、このバンドの「ユキちゃんサーガ」は途切れません。ぜひ大物になって欲しいバンド。

2010年6月20日日曜日

グラグラな社会とグラグラな僕のまんが道


 

僕の小規模な生活などのエッセイ漫画で有名な福満しげゆき初の活字本。
 
 ダウナーな生き方はあんまり良くないと思います。食う為に生きる、引いては死ぬ為に生きる事に繋がりかねないからです。でも、ダウナーな創作物はアリだと思います。製作者にとっては問題を新たに捕え直し、その解決のきっかけになり、受容者にとっては共感から孤独感を薄れさせたり、同じ問題でも違う視点が有る事を発見したり出来るものに成り得るからです。絶望を描いてるはずなのに、作ってる側・受け取る側共にメタ的には希望を得ちゃう。

 で、福満さんの漫画の主人公達はスターシステムというか、ほとんど同じ様相・性格を持っていて、エッセイの方もほぼ同じキャラで自分を描いてるので、ある程度作者自身の姿が投影されてると思われるのですが、こいつらと来たら、大抵、自分に積極性やコミュ力が無いせいで上手くいかなかった物事を他人や境遇のせいにしてそれを恨む、という素晴らしい社会不適合っぷり。でも、すごく内省的で、落ち込み易く、憎めない。欲求があるのに、うまくそれを実現出来ない。悲喜劇的、チャップリン的なのだと思います。

 僕の家はそんなに貧乏では有りませんでしたが、それでも自分より何かを持っている人が羨ましくて仕方ありません。能力、容姿、人間関係、金銭。福満さんはそうしたもの全てを少しでも自分より持つ人間に嫉妬し、起爆剤としています。誰でも持っている欲望、嫉妬を包み隠すこと無く描く所にこの漫画家の魅力があります。
 
 無論、それらを満たしながらも素晴らしいものを作り上げた人達は居ます。三島、芥川、太宰。何故「持つ者」にも関わらず、彼らが作り上げたものが素晴らしいか。僕は彼らがそうして持てる物に価値を見出さず、追求し続けたハングリー野郎だからだと思っています。
 常に飢えている事、飢えが巨大である事。境遇や生き方ではなく、それをどれだけ内に秘めているかが、その作者の創作物の魅力を決定するものではないでしょうか。福満さんの漫画には、そうしたハングリーさに満ち溢れています。極めて優れた内省的漫画家。しかも分かりやすい。 


 漫画の方でも度々ネタにしていますが、福満さんがどれだけうじうじした青春時代を送って来たか、社会にどんな不満が有るか、どれだけ満たされてないか、が延々書き記されています。正直漫画でやった方が良かったんじゃないかなーと思います。しかし、彼の漫画を読んで共感してしまった非リア共は、改めて彼の文章に直に触れる事でニヤニヤしたり、もにゅもにゅしたり、もりもり出来たりするのではないでしょうか。
 長々と書きましたが、ファンブックだと思います。漫画を未読の方はまず彼の漫画を。


2010年6月17日木曜日

コラージュ

 最近、いとうせいこうの参加している□□□(クチロロ)というヒップホップユニットの「ヒップホップの初期衝動」という曲を聴いてはっとすることがありました。
□□□ - ヒップホップの初期衝動

「そのシンプルさに俺は強く感動し、歩く速度のそれぞれの四拍子、言葉と足が絡み合うようにし、あらゆるアイデアにヒップホップ応用し」
 好きなら、何でもそれを適用してみろと。
 人が作ったものには何らかの意図が存在しています。その意図が金儲けだろうと性欲だろうと、何らか作ることの根拠が存在している訳です。好きになったなら、それ位読み取れて当然。じゃあ読み取って何をするか。その他の生活の部分にそれを応用してみるのです。

 無意味な事は何も無い。要は何処まで考え続けられるか。意味を見出せないなら、確かにそれは無意味です。即刻、やめた方がいい。でも、何かの意図をそこに見つけたなら、それを感じる事は決して無駄じゃないという事を後押ししてくれる様な、力強いメッセージ。
 ちょっと元気になりました。

 歌詞が「はじめに言葉ありき」という世界一有名な引用から始まるのですが、聴く人の精神状態によっては同じ聖なる文言として受け取れるほどの輝かしさがあります。

2010年6月14日月曜日

少年少女漂流記



 乙一と古屋兎丸のコラボレート漫画。新品で買わなくても良かったなぁと思います。
 乙一はジョジョのノベライズ、古屋兎丸はライチ倶楽部位しか読んで無かったのですが、どっちも非常に面白く感じたので、これは絶対面白いぞ!という期待感で読んだのがまずかったのかもしれません。

 「少年少女」と題打ってあるように、8人の中二病類型少年少女達を描く短編集。一応最終話はまとめとして一話に全員集合させてるし、群像劇と言い換える事も出来ます。
 ただ、最後に二人の対談が掲載してあって、「俺達の共通点って中二病だよねー」と書いてあっていらつきました。中二病というのは自意識にのめり込み過ぎ、自分ワールドを形成しちゃう状態を指すと思うのですが、そういったテーマの創作物に作者の意図を感じさせたら終わりです。読者に自分は中二病を俯瞰している事=中二病を上から目線で眺めている、のめり込んで無い人というのを説明しているようなものだからです。

 安直な中二病的を患ったキャラクター達の悩みは確かに深刻なのですが、悩み以外がぺらっぺら。だから感情移入する事も出来ず、作者に意図的に悩みを持たされている違和感を感じさせます。せっかく綺麗なラストなのですが、演じてる感バリバリで、綺麗ごと言いやがって…と思ってしまいます。

 多分読ませる対象が僕の様な現役中二病ではないのでしょう。かといって、過去中二病患った人たちを対象にしたものでもない。中二病の痛々しさをいとおしむ様な描き方ではなく、中二病ってこんな感じだよね、うんうん、という分かり切った(ような)観察者の視点からの描き方では、上記二勢力は納得できない。じゃあ誰を対象にしているのか。
 思うに、作中で主人公達を白眼で見ていた「きもーい」「不思議だよねー」という非中二病サイドが読むと面白い漫画なんじゃないかと思いました。誰しも、様々な思いを抱えています。非中二病サイドとはいえ、死にたい、鬱だという様な事は考えるはずです。そんな時この漫画を読むと、晴れやかな気分になれるんではないかと。あー、こういう事考えてたの自分だけじゃ無かったんだ!と。キャラ造詣の薄さはそういう一時的中二病の雰囲気。

 僕はあんまり好きでは無かったですが、最初に挙げた二作品は本当に面白かったです。ちょっと中二病言い過ぎた。


2010年6月11日金曜日

疾走、即ち人生『マインドゲーム』






アニメが実写に勝る部分には、スピード感と情報量があると思うんですが、
これってシュールレアリズムのダダを起し始めた人達が理想としてたテーマと重なる所が有って、「動く絵」ってのはそれそのものがシュールなんかもしれませんね。


2010年6月5日土曜日

京都旅行紀その壱

 京都に住んで居ながら旅行記もあったもんじゃないですが、昨夕の事です。
 休日と言えば十二時間位引き篭もるか、外出するかという極端な行動原理があるのですが、引き篭もっておりまして、よし、夕飯の買い出しついでに付近を散策しよう、と思い立ったのです。
 部屋を整理したいという思いも重なり、ティッシュケースとかなんかいっぱいポケットの付いた壁掛けみたいなのが欲しくなり、雑貨屋を探す事にしました。
 家が金閣寺周辺なので、大学も近くにあるし、隠れた名店のようなものがあるんじゃないかという期待があったのですが、もう全然無い。立命館・佛教大学と二つも大学がほぼ同じ地域にありながら、なんで雑貨屋如きが無いの?ビレッジヴァンガードを多用して、「サブカル大学生」みたいなレッテルを貼られるのは小癪ですが、雑貨屋が他に無いんだから仕方ない。俺は一瞬、将来自分の好きなもので埋め尽くしたお店を開こう等と血迷った考えをよぎらせました。
 しばらく、我が愛車エーリングリーン号(ママチャリ)を疾駆させていると、次第に民家が無くなってきました。
 良い感じの殺人事件が起こりそうなペンション風マンションを通り過ぎると、何という事でしょう、70年代のラブアンドピースを感じさせる『芸術村』と表記さるる看板が現出したではありませんか!若きアーティスト達が日々気に入らない完成品をぶち抜いたり、両刀使いになったり、ナイフで耳を削ぎ落としたり、ガンジャの煙の向こうにディオニュソスの姿を見たりしているのでしょうか!と少しワクワクした俺がバカだった。「宿泊・お食事・お土産」が至る所に列挙され、送迎タクシーが行き交う始末。けっ、何が芸術だ、反吐が出る。
 少し走ると、住宅街が現われ、秘境の様な雰囲気を醸し出していました。道路にはもう完全に歩道の形跡が無くなり、たまにすれ違うのはエンジンを持った乗り物ばかり。道はいよいよ本格的に傾斜を見せ始め、もう山って言っていいような感じ。よーし、行くぞエーリングリーン号(二年選手)。
 と思ったら、耳元のイヤホンから、キングクリムゾン30周年記念盤が流れ出す。ロバート・フリップの気持ち悪い位正確でかつ爆発的なギター。ジョン・ウェットンが「とぅぇんてぃふぁーせんちゅりすきっつぉーいまぁぁぁん」と歌いだす。ふと電柱の袂を見ると、初期のデザインに近い、目の小さい野原しんのすけの手製看板が二対。「あぶない」という吹き出しを掲げているが、危ないのはお前のそのあやふやな絵柄と著作権だ。時刻は午後七時。とは思えない程の明るさ。しかし、それらに加えて続く道の鬱蒼とした雰囲気。どうして、これで不安にならずにいられようか。
 かくして、本当に何を見つけた訳でもなく、帰路に着く事になったのです。散歩オブ散歩。