高校の終わり位にヘンリー・ダーガーと出会い、アールブリュット・仏語で生(き)の芸術、英語で言う所のアウトサイダーアートについて興味を持ち始めました。
ここで使われる「アウトサイダー」とは自ら選択して社会の外へ出た人達ではなく、社会によって「アウトサイドに在ること」を形作られた人達です。彼らが作るモノが何故アウトサイダー・アートと呼ばれるのか?
例えば映画『アマデウス』で見られるモーツァルトなんかは酒でダメになる、女遊びに夢中になる、けど作ったものは素晴らしいので腫れ物の如く接せられる、といういわゆるアウトサイダーですし、日本のサブカルの祖と言われる寺山修司は舞台上で演劇を否定する、創作物中で現実と創作の世界をどちらも否定する、享楽に美しさを見出し肯定するというモロなアウトサイダーです。
しかし、彼らの作品自体はアウトサイドに無い。
無論、アートというものは他人に見出されて初めて「アート」足り得るのですが、彼らの生き方や作品が如何に無頼的であろうとも、何故彼らがその作品を作ったか?を考えた時、其処には何らかの意図や理由が存在してしまう。
自身が食べる為であったり、他人に認められる為であったり、自分を知って欲しいという欲望であったり。
他者無くして自分が存在する事は出来ない。だからこそ、「アート」は「アート」なのです。
ニーチェのいうデュオニュソス的な何か、根源的美を表現する時に、人間は何らかそこに自分なりの理由を加えて、形を歪める事でしか根源を取り出す事は出来ない。はず。なのですが。
アウトサイダー・アーティスト達はそれらの理由を必要としない。
とにかく創りたくて仕方ない衝動を形に変えたものが彼らの作ったアウトサイダー・アートと呼ばれるものです。
言ってしまえば、教科書の隅に書いたパラパラ漫画だって、海に行った時に作った砂の城だってアウトサイダーアートな訳です。ただ、それを「アート」と規定するのは他人であり、自分でこれらを「アートです」と主張しても誰も認めてくれない。
アウトサイダー・アートとはその創作衝動の強固さ・強大さ・広大さに他人が畏怖し、アートと呼ばざるを得ないほどの狂気的な一人遊びを指すのです。
前述のヘンリー・ダーガーという清掃夫はその生涯を掛けて「非現実の王国で」という、自身で習得した技術で描いた挿絵を組み込んだ、一万ページ以上にも及ぶ小説を書き上げました。
また、フェルディナン・シュヴァルという郵便配達人は配達の途中で見つけた良い感じの石を積み上げて、宮殿と言ってもいい建造物を作り上げました。
こうした、異様なモノを作り上げる人達には精神に疾患を持った人、神経症患者やサヴァン症、パラノイアを患った人が多かったため、アウトサイダー・アート=障害者アートという誤った認識を抱えている人が多いようです。
先日、「アール・ブリュットと私たち」というシンポジウムがあったので行ってきました。
立命館大学の社会学教授が主催のようです。
宣伝があまり上手くいってなかったのか、部屋の広さの割に人が少なく、まぁ僕はあんまりギュウギュウするのは好みじゃなかったので気持ちよく話が聞けました。
お話をされていたのは障害を持った人達とダンスを作り上げているダンサーの方、その企画を担当しているプロデューサーの方、ナイジェリアの伝統舞踊のダンサーの方の御三方。
僕はアール・ブリュットに興味があります!等と言いつつ、ほとんどその制作の現場に触れた事が無かったので、頭で知っている事でも、改めて生の声を聞く事が出来た良い機会でした。(まぁ本当の現場ではなく、現場に携わっている人の声なので、部分的っちゃあ部分的ですが)
お話の中で紹介されていた動画です。カッケェ!
でしたが。
ダンスや演劇、「舞台芸術」という集団での芸術の特性上仕方ない事だとは思うのですが、障害者の方が自発的に舞台をやろうとした訳ではなく、外から「企画者」もしくは「発破をかける人物」が関与している。しかも、その公演には必然的にお金のやり取りが発生する。
これは「アール・ブリュット」という作品の形態ではなく、
「エイブル・アート」というアートを通した社会参画、運動の形態です。
それぞれの言葉に直接「障害」は関わり無いのですが、後者は特に障害者芸術を意味します。
簡潔に言ってしまえば、
「完全無欠な個人の主体性によって作り上げられた芸術」がアール・ブリュットであり、
「様々な『差異』を差異として認めた上でアートに取り込んでいこうという運動」がエイブル・アートなのです。
そもそもナイジェリアの方のダンスの話は全くアール・ブリュットは関わりのない、どちらかと言えば民俗学的なお話でしたし(早口の英語であんまり聞き取れんかったけど)、
素直に「アートとこれからの社会の付き合い方」とか「現代におけるダンスの在り方」、もしくは「エイブル・アート」というタイトルにしておけば、こんな所で僕が愚痴愚痴言う必要も無かったのです。
「アール・ブリュット」がカッコつけの言葉に堕してしまっている。
「シンポジウム」だし、ただ観客でいるのもアレだなぁ、と思ってよっぽどこれを言ってやろうかと思ったのですが、話の内容は非常に良かったし、何かこのイベント自体を否定してしまう様な嫌な感じになってしまいそうで、今カタカタ、ッターン!とタイピングをしています。
表現者にとってはこうした言葉の意味等は些細なもの、しゃらくせぇ、と斬って捨ててもらうべきなのですが、仮にも大学教授。しかも文系。如何に上手く言葉で遊ぶか、という点において、作家以上に細やかに丁寧に言葉について考えるべき職業だと思います。イベントの主催者ですから「自分の専門分野じゃないし」という言い訳が許されるものではありません。
まして、Wikipediaで調べればきちんと意味が書いてあるレベルの単語。もうちょっとなんとかなったんじゃないかなー、という愚痴でした。
画像の引用
http://www.hammergallery.com/Artists/darger/Darger.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%81%AE%E7%90%86%E6%83%B3%E5%AE%AE
アール・ブリュットを論じる上で、大変参考になる斎藤環さんのお話。
➼芸術の内側と外側『アール・ブリュットをめぐるトークシリーズVol.1:アール・ブリュット作家の共通性と個別性 斎藤環』
斎藤環さんの著作について。
➼『戦闘少女の精神分析』要旨「ファリックガールズが生成する」個人的まとめ
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