Subbacultcha

「サブカルチャー」という括りの下、文学・芸術・漫画・映画等について述べます。

2010年10月19日火曜日

日本的空間に痺れる『赤い雪』



「自然淘汰」という言葉があります。弱いものはより強いものによって、淘汰されていく。
アメリカの強権によって、世界はどんどん英語化が進んでいきます。
中国の社会主義がひっくり返ったらどうなるか分かりませんが、今の所世界は英語化に向けて進んでいってます。

この狭い日本という国でも、どんどん方言が淘汰され、いわゆる「標準語」が幅を利かせています。僕は東京弁と言い張っているのですが、物事何でも基準が必要らしく、「よくテレビで使われる言葉」が日本語の基準となっているようです。
方言原理主義者的な僕は、現在関西在住ですが、関西弁に抗って、意地でも故郷の方言を話すように意識しています。
最近は大分そのシールドも剥がれかかっており、非常に気恥ずかしい日々を送っています。

僕は、「方言女子」がとても魅力的だと思っています。
この東京弁が幅を利かせ、その他方言がマイノリティとして退けられる理不尽な世の中において、胸を張って、「田舎から出てきたこと」をアピール出来るカッコ良さ。また、マイノリティであるが故にちょっと破壊できる、標準語で構成された日常のマンネリ感。
もっと、地方出身者にはがしがしお国言葉を使っていただきたい。その方が人間としての魅力が滲み出るのではないでしょうか。

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本書は勝又進という漫画家の作品集です。
帯に、水木しげる・つげ義春両氏の推薦文が載っており、思わず買ってしまいました。その二人が薦める、即ち初期ガロ的な、激しいデフォルメによる三頭身キャラ、相反するように極度に緻密な背景、抒情とシュールの狭間にあるような世界観を共有する漫画でした。

何の説明もなく、当たり前のようにしゃべる狸や河童が存在する世界で展開する、大正~昭和初期の田舎暮らし。肥溜め、酔っ払い、納屋、汗を吸った衣服。匂い立つような、押付けがましいほどの生活臭を感じさせます。

ストーリーは一様に、安易なハッピーエンド・バッドエンドは迎えず、そこに爽快感は全くありません。
読者の読了後に残るのは形容しがたいモヤモヤ。それは寂しさとも言えるし、不安とも言えるし、期待とも言える。何とも中途半端なのですが、それらが入り交じったモヤモヤを残すのが彼の漫画の力のようです。でも僕にはこのモヤモヤ感が、すごく日本的に思いました。
終わる季節を見送る感覚にとても似ているのです。

一応は「終わり」という形式的なものがある。しかし、その後も時間が流れていくのを僕達は予定調和的に知っているので、完全な終局でないことをきちんと頭では分かっている。
でも、それが過ぎていくのをただ眺めている時、心地の良い別れの寂しさを感じている人はたくさんいるはずです。
寂しい、でも美しい。
それが日本人の季節把握能力であり、詫び寂びや諦観といった理性ではなく心で認識している感覚なのではないでしょうか。
この勝又進の作品集に納められている漫画には、日本の暮らしの中の様々な機微が描かれており、どうしようもなくそういう感覚を掻き立てられる。「日本的空間」を感じさせられてしまう。
それには方言を喋る人々の存在の影響も大きいと思います。

元々東京弁の人は仕方ないにしても、地方出身者が東京弁を喋る時、既にそれは逃れようもなく「演技」になってしまっています。「自分」を偽ってしまっている。
僕はそこに何だか非人間的なものを感じるというか、「日本」もしくは「東京」に日本人が操られているように感じてしまうのです。

この作品集では、誰ひとりとして東京弁を喋らない。故に、皆自分の意思によってそこに立っているように見えるのです。
飾らず、ありのまま、なんてものはある意味有り得ないのですが、「漫画のキャラクター」が方言を喋る事で、「ありのままの泥臭い人間」性を獲得出来ているように僕は思います。
泥臭さ、ナマのままの人間がやり取りを行う様は、僕にはとても健康的に見える。

結局の所何が言いたいかというと、方言を喋る女の子は魅力的だということです。
「漫画のキャラクター」であることを演技せずに、ひたすら「ありのままの自分」を見せつけてくるキャラクターは陰も陽もバランスよく身につけているように見えて、あざといほどに魅力的に動いて見せてくれます。
時折垣間見える陰と下卑た笑いに彩られる生活の陽。そうした日本的空間に痺れたい時にはこの漫画を読むに限ります。 



地方都市の美しさ。
➼無意味を重ねた所に現れる美しさ『海炭市叙景』

京都狭い。
➼僕らの路地裏戦争『堀川中立売』






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