Subbacultcha
「サブカルチャー」という括りの下、文学・芸術・漫画・映画等について述べます。
2010年8月16日月曜日
虐げられた者の不愉快な眼『空っぽの世界』
夏休み、帰省。
小学生ですら宿題、ラジオ体操、プールと過密な義務で忙しい時期であるというのに、日本の大学生のだらけた休みっぷりと来たら。などと言う前にたくさんやらねばならない事があるはずなのに、夏休みを謳歌するモラトリアマー(モラトリアムの人称形)です。
京都の下鴨神社という所では、毎年夏になると古本まつりという奇矯なまつりが行われていて、あっついのに関西一円から古本屋が集まって来て密集して本を売り、あろうことか客まで一緒に密集して、涼しげな鎮守の森を人の湿度と体温でむんむんにしちゃうイベントが起きているのです。今日、8月16日まで。
文学部であり、かつ面白いもの好きのワタクシは結局毎年何日か行っちゃいまして、ぼがーっと本を大量に購入、翌年の開催までにそれらを読み切らず、本と漫画が生活居住空間を圧迫、という悪循環を繰り返していたのです。
けれども、読みたかったあの本がこんな安価で!?という出会いの多彩さ故に毎年通っていたのです。
が、何と言う事でしょう。
実家に帰って来てみると、ブックオフの大型店舗が半額セールやってるじゃありませんか。しかも、ねこぢる、アドルフに告ぐのハードカバーをそれぞれ100円コーナーで発見、半額の計100円で手に入れちゃった。必死で、古本まつりで欲しい本を探したあの時間、そしてその金額。ハハッ。そりゃ、ブックオフ勝ちますわ。
本書も、半額で購入、270円でした。
山田花子という漫画家は24歳で自殺しました。統合失調症だったそうです。
彼女の漫画は、ギャグ漫画の体裁を取りながらも、ヤマやオチがほとんどありません。そこに描かれるのは様々なシチュエーションにおける強者と弱者。そこで虐げられる弱者の内面。
日本の美徳の一つに『下剋上』というやつがありまして、下から見た上の立場の者は、不合理で意地悪で腐敗してる、みんなで力を合わして上の奴潰そうぜ!ってのがありますが、「多数」で「個」を考えた時、大抵「個」は「個としての個」ではなく「多から見た個」に変形させられている事に「多数」は自分達で気付いておらず、自分達に都合の良い解釈で「個」を捉えます。
下の者だって単なる人間ですから、不合理で意地悪で腐敗してるかもしれません。逆に上の者は合理的に、公平にあろうとしているのかもしれません。けれど下剋上の美徳においては、弱い事が=正しい事、評価される事に変質してしまい、立場が上というだけで悪のレッテルを貼られてしまう。『下剋上』を美徳として認めちゃう人間性は、ステレオタイプで人を評価しようとする、というのは少し言い過ぎでしょうか。
山田花子の描く漫画では、強者も弱者も、同じようにどす黒い感情を渦巻かせています。美徳は徹底的に排除され、ただ人間関係のぎくしゃくした感じ、場の気まずい空気、鬱屈した思いが実直に描かれます。
たとえ障害を持った人が起した事件でも事件には変わりないし、内向的で意見をあまり言わない子だから優しい訳でもない。当たり前なのに、誰もがあまり見たくないから目を背けて、意図的に忘れている事が、ヤマもオチもない、同じようなストーリー展開の短編をいくつも並べる事で強烈に読者にそういえばそうだった、と思い出させます。
しかし、何でそれを忘れていたかと言えば、「見たくないから」「不愉快だから」です。
「弱いもの」はつまり「支配下におきたいもの」で、「守りたいもの」で、それらが純真で、可憐で、無垢であればあるほど、自分より弱いという属性が強化される。そうじゃないなんて、下剋上の美徳が身体に沁み付いた僕らには信じたくないのです。
おおよそ、この漫画を読んで救われる人や晴れやかな気分になる人は居ないでしょう。その苦々しさを僕ら読者は笑いで表す事が出来ない。苦笑、あるいは露骨に落ち込んだ表情。読者は、それらを一時の感情として、脳の片隅の適当な引き出しに放り込んでおいて、また彼女の作品に触れた時にでもあぁそういえば、と少し引っ張り出して来れば良い。素知らぬ顔をして、自分より弱いものを愛でればいい。
しかし、それらを常に出ずっぱりにして生きなければならない作家・山田花子はどこに弱いものを、守るべきものを見出せばいいか。
しんどくて、不愉快で、気持ち悪くて、切ない短編集でした。
弱さ=悪、なのか?
➼社会的弱者に対しての倫理観『天国に結ぶ戀(一)』と『銀齢の果て』
結局の所、世界は自分を起点に生成する。
➼当人にとっては大スペクタクル『トゥー・エスプレッソ』
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