Subbacultcha

「サブカルチャー」という括りの下、文学・芸術・漫画・映画等について述べます。

2011年6月25日土曜日

社会的弱者に対しての倫理観『天国に結ぶ戀(一)』と『銀齢の果て』

僕の異形に対する興味は、自分でもどんなものなのかはっきりと掴みかねています。
社会的弱者に対する憐憫なのか、
自分との「違い」に対する憧憬なのか。

いわゆる「ノーマル」とは何かが違う人達。
ノーマルという多数に対する少数者。

数の暴力によって、または単純な身体的弱さによって、少数者達は社会という世界の中で「弱い者」として、あるいは責められ、あるいは保護され、あるいは憐れまれ、生きてきました。
そこに在る物語は切ないものであったり、怖いものであったり。
でもそれは僕が「多数者である」という横暴さの上に成り立つ感情なのでしょうか。

よく分からないから知りたい、という好奇心も其処には絶対に在るのです。


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天国に結ぶ戀(コイ)(1)/ 大越孝太郎

『月喰ウ蟲』『猟奇刑事マルサイ』等、非常にグロテスクな雰囲気を持ちながらも
美しい絵によってグロとは少し違う、何やら壮絶な世界を描き出す大越孝太郎の漫画。

現実には有り得ない、異性シャム双生児、
男児と女児の、腰の部分で繋がった状態の双子の生が描かれます。
一件「シャム双生児」というグロテスクになりそうな題材を選びながらも、
マルサイに見られたようなグロ描写を前面に押し出す様な雰囲気はなく、
ひたすら「子ども」「シャム双生児」「孤児」がクローズアップされた、寂しく切ない雰囲気が続きます。


主人公の二人が異性であるが故に、
殊更印象付けられる「性」。
主人公達に投げかけられる、作中人物は意図しない残酷さ。

「どっちが上でどっちが下だ?どっからどこまでが男でどこまでが女なんだ?」

彼らは身体を腰の部分で共有しているが為に、どちらかが病に倒れれば、もう片方もその影響を受けて倒れてしまう。また、どちらかが怪我を負い血を流せば、もう片方も血が足りなくなる。
彼らは二人であって一人で、同じ日に生まれ、同じ日に死ぬのです。

錬金術における「完全な人間」とは雌雄同体のことであった、と言います。
しかし、完全さが一度欠け、不完全である事が当然になってしまった後では、
「男」と「女」は永遠に分かり合う事の出来ない、「完全なる男」と「完全なる女」になってしまった筈。
分かり合えないけど、別れられない。
これは一巻なので、そうした「異性」であることの問題は仄めかされる程度なのですが、
主人公・ののこと虹彦は成長していく。嫌でも、完全な人間は性を、「不完全」を獲得していかなくてはならないのです。
どうなるのか非常に楽しみ。

それから、シャム双生児であるという「障害を持った人間である事」がもう一つの大きなテーマとなります。
舞台が大正期の日本である為、
「ドグラ・マグラ」や「奇子」でも描かれるように「家にとって恥である人間」は外部の人間の眼に触れぬように隔離されて生きています。それは精神に疾患を持っていたり、近親相姦によって出来た子どもであったり、本作のように明らかに社会に出れば浮いてしまうほどの大きな身体障害を持っていたり。
そして、ある歴史的なきっかけを期に、二人は地下牢から出ざるを得なくなります。
しかし、大正世界。
そんなに大きな障害を抱えた人間が、真っ当に生きていける筈も無く。

彼らは見世物小屋のスカウトマンに半ば誘拐されるように連れて行かれ、見世物小屋「寿一座」の一員として生きていくこととなります。

言う事を聞かなければ飯が抜かれ、芸を上手くこなせなければ叩かれ。
それで賃金が貰える訳でもなく、ただただ一座の為に「くっつき人間」としての生活を余儀なくされるののこと虹彦。

でも、それを「可哀想」という評価を下せるのは、所詮「ノーマル」の視点なのではないでしょうか。
スカウトマンは言います。

「いかな人間に生まれつこうが手前の器量を認めることの出来ねェ野郎はダメだ。片輪者は仲間がすべて。鬼ばかりの地獄でも誰かひとり、信じあえる相手が居りゃあそこが天国だと思え。」


「障害者の人を見世物にするなんて、人間の尊厳を踏みにじる行為だ!」という『優しい』意見のおかげで、見世物小屋というお店はすっかり姿を消し、今では障害者の役者の出ない疑似見世物小屋のようなものが全国で二、三残るばかり。
どんな組織に属するにしても大なり小なり苦しみはある訳で、でもそれがその人が絶対に必要とされて生まれた苦しみなら、僕は全然耐えていけると思うのです。問題は「別に自分じゃ無くても代えの効く、機械化・無個性化を強いられる苦しみ」をドンドン与えられた時。それは一見外からすればイイことであるように見えても、強いられている本人はどうでしょうか。
「その人」ではなく、「障害者」「弱い者」として全体にカテゴライズされる事の方が、よっぽど僕には尊厳を踏みにじる行為に思えるのです。


非常にリアルな表現・感情表現で以って、「男女」「障害者」という大きなテーマに疑問を呈する、文学漫画だと思います。
「土蔵に閉じ込められたシャム双子」という『孤島の鬼』的なシチュエーションから、サーカスに誘拐され芸人として生きる事になるという『少女椿』的なシチュエーションが描かれますが、この作品はそのどちらとも違う、叙情性・詩情性があります。
ひっじょーに続きが気になるのですが、残念ながら、掲載誌の都合で一巻しか出ないまま打ち切り状態になっています。大越さん自身も続きを書きたがっているそうなので、僕が大富豪になったら是非とも続きを書く場を準備したい所。

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銀齢の果て/筒井康隆

老人であることは悪なのか?
和菓子司の隠居、宇谷九一郎の住む宮脇町でも、70歳以上の国民に殺し合いをさせるシルバー・バトルが遂に始まった!


2006年に出た本なので、前後関係で言うと完全に「バトルロワイアル筒井パロディバージョン」です。
将来的には老人の数が若者の人口を圧倒する、という恐ろしい統計が出ていますが、今の所「ノーマル」は身体的絶頂期である若者(社会人)がイニシアチブを取っていると思われます。
70歳以下が全て若者、というのも何だか政治家的な言い方ですが、ひとまずこの本の世界では若者が若者による社会を作っていこうとした結果、邪魔になった老人達が「老人相互処刑制度」、通称・シルバーバトルによって、自分達で自分達の数を減らさなくてはならない状況に追い込まれます。

宇谷九一郎という如何にも主人公タイプを始め、マッドサイエンティスト、好色悪徳神父、老女優と老執事、元自衛隊員、小人症の元プロレスラー、ハードボイルド農民ばーちゃん、旦那の敵討を果たさんとする妻グループ等、様々なタイプの「老人」である主人公達がそれぞれの思惑を胸にシルバーバトルに放り込まれていく様が描かれます。

弱者である老人達がシステムによって殺し合いをさせられ、あるいはその闘争を楽しみ、あるいはそのシステムの根源を憎み、あるいはひたすら生にしがみつこうとし、あるいは現実逃避をする。「老人」を「少年」に置き換えればそっくりそのままバトルロワイアルです。

しかし、成長途中の少年達と同じ様に、それ以上に、老人は「弱い」
貧乏な孫や子どもの為に働く事に義務感を覚えていたり、老いた故のセックスの楽しみ方を知っていたり、老獪な戦術を立てたり、前職での体に染みついた経験を元に闘ったり、とこの作品の中での老人は全く弱くありません。

けれども、老人には「未来が無い」
お金を貯めていた所で使い切れるのか、弱った体は誰かにサポートしてもらわねば生活出来ないのではないか、何かを変えようとて動いた所で本当に其れが変化し切るまで自分が生きているのか。
子ども達は「力が無い」というだけであって、大きな「未来」という財産を持っています。
故に「未来のある多数者達」からすると、老人とはサポートする為に労力を割かねばならない人達・使い切れないお金を貯め込んで経済を不活性化する人達・良くも悪くも保守的な立場の人達といういわば行動に際して邪魔になる者たちなのです。そうした多数のエゴに対して、老人達は個別のエゴを述べることしか出来ず、「弱い」のです。

刃を刺そうとして力が弱くて刺さり切らなかったり。
目が霞み手が震え、銃の照準が合わなかったり。
素早く殺せない為に殺される側の苦しみが長く続いたり。

「バトルロワイアル」には無かった老人ならではのエッセンスが至る所に見られます。
しかし、これは笑い話では済まされない。
どんな子どもでもやがて老人になるからです。

老人である事、弱い事を「悪である」と断定するのは簡単な事です。
しかし、その結果を自分が老人になった時に果たして納得出来るか。
自分が子どもであった時の理不尽さや、交通事故によって障害者化してしまった時の不便さ、
酷く幼稚な、でも僕が真理だと思っている「自分のやられて嫌な事はするな」というのは、別段自分の日常だけでなく、日常を形作るものすべてに向けられなければならない姿勢だと思うのです。
「自分がそうなった時に納得出来るように」人は倫理観を持って生きていかなくてはならないと思うのです。


故に「老い」を悪として憎むのではなく、「老いを悪とさせるモノ」を憎める様な、そんな思考・思想を持って生きたいなぁと読了後に思いました。

あと、文体が如何にも筒井節で素晴らしい。
一切空行や見出し数字が無く、次々と主人公が入れ替わる、という小説として結構特殊な書き方です。
読み返す時に場面を探すのは非常に難しいですが、視点が切り替わるのに文に切れ目が無い事で、却って「集合から成る一つの物語」であることが強調されているというか、疾走感があるというか。

個人的には、広島の山村地区で圧倒的な闘いを繰り広げる八木熊のような老人になりたい。
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全ての「弱者」は、結局自分と合一する。

弱者を痛めつけその上に立とうとする、もしくは自分よりも相手を弱者だと思って「優しく」する、ってのは結局自分の弱さを捨て切れない心の弱い人なのであって、僕はきちんと相手と一対一で向き合える「強い」人間でありたいなぁ、と願います。

それでは悪とは何ぞや。
➼「悪者」について思う所 『悪虐』、『悪人』、『ザ・ワールド・イズ・マイン』から

「性」について。
➼女を追う男、性が呼び起こす恐怖『グッバイ艶』と『密会』

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