ゴールデンウィークという事で、全国各地で様々な催し物があったかと思います。
僕の居る京都でも様々な祭りやら市やらがありました。
で、トリペルというカフェで行われていた古本フェスで、この本を見つけました。
網野成保、という作家の作品なのですが、
この方は二冊しか単行本を出されておらず、しかもどちらも絶版になっているという。
手に入れられた事自体が、かなりラッキーだったようです。
短編集なので、ざっと中身をさらっていきます。
●は特にオススメ。
●『夢十夜』:夏目漱石作品のコミカライズ。不気味な雰囲気の第三夜と八夜を抽出。とはいえ、不安程度のものだった原作が、見事に恐怖へと昇格されている。皮膚感覚が強調されており、気持ち悪さ・生々しさ・不気味さの面で、原作越えしている。素晴らしいコミカライズ。
●『仮面』:終電の闖入者。ちょっとした日常の裂け目がグイッと大きく開かれ、狂気の世界を現出させる。だが、一番怖いのはその狂気っぷりではなく、僕達の立っている場所が既にその狂気の下で成り立っているという事。
『学校の怪談』:新聞部が学校新聞で学校の怪談を特集する。「馬鹿馬鹿しい!私達は帰るわよ!」と女子四人中二人が先に帰るが、案の定彼女達から怪談の餌食に。結局皆無事でその一件を「事件」として振り返る事が出来るものの、後書きが非常に怖い。
『わたしたちの町』:小学生達が授業で自分達の街の模型を作る。主人公の女性教師と共に、「子どもの持つ不気味さ」への目線をどんどん強くさせられる。終わりは星新一のようなシュールさ。
『サトル』:思春期と日常のやるせなさと純粋に死への疑問。遺書を書き貯めるというサトルに興味が湧く女学生三人組。結局一般的な倫理観なんて大人の作ったモノで、何が正しいかは本人にしか分からない。
『塊』:突然、黒雲に覆われる高層ビル最上部。連絡の取れなくなったビル内へ、部長と救助隊員が向かう。安易な「叩き」に終始せず、読者に嫌な読後感を与えて心に残す。
●『高野聖』:夢十夜、仮面と並ぶ、本書の傑作の一つ。舞台は2011年の敦賀。「なんでも年の始め、ここいらの神が何もかもを道連れに大往生したそうな」聖が語り始める。昔話ではない。「現代の敦賀」と「神」と「ここいらを道連れに大往生」で気付いた人はかなり鋭い。「神」の現地での受け入れられ方が現実とダブる。1980年代に本作を書きあげた作者の慧眼に背筋が寒くなる。
『土色画劇』:オムニバス。「第二話背中」はもしかして作者の実体験なんじゃないか、と思わせるほど現実感がある。
『REALITY』:担任教師への問題児の告発から、授業中止、学級討議、そして崩壊へ、という流れをすらっと描く。一見、「学校モノ」に錯覚しそうだが、この作者がそれで終わらせる筈もなく。
とまぁこんな感じなのですが、
タイトルが『リアリティー』とあるように、どの話ももしかしたら本当にあるんじゃないか?と思わせるような現実感に溢れています。
常々僕は笑いと恐怖はギャップから生まれるもの、と思っているのですが、
笑いは「自分の知っている常識」と「話者が表現しようとしているもの」にどれだけ差があるか、によって、
恐怖は「自分の知っている常識」に「差が激しくあるものがどれだけ自分に影響可能な場所に在るか」という距離感によって、それぞれ生まれるものなのではないでしょうか。
つまり、恐怖は現在の自分にとって当たり前であるモノ、日常・安全・安心・健康・生といった要素が、乱される事があるかどうかがその基準だと思うのです。
だから、「当たり前」が「差が激しくあるもの」のすぐ隣に在る事を知ってしまうのはとても怖いのです。
真っ暗な窓の外は気になりませんか? シャンプーの時洗っているのは本当に自分の髪の毛ですか? 鏡に映った顔は自分の顔だと心底信じていますか? さっきすれ違った人はきちんと人でしたか?
日常を不安にさせる。グロテスクやスプラッタに逃げたりせず、かといってストーリーのウマさだけで逃げ切ったりせず。
読者の脳味噌を揺らし、戦慄を引き起こし、現実にまでその揺れが伝わる。
正統派ホラー漫画ながら、確かにこの人にしか描けない世界が、生々しさが在ります。
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