2011年9月3日土曜日

「悪者」について思う所 『悪虐』、『悪人』、『ザ・ワールド・イズ・マイン』から

新堂冬樹の新作『悪虐』では、タイトル通り「悪」がテーマとなっているのですが、
どうにも何か迫力を感じませんでした。

僕にとってインパクトのある「悪」「殺し」の描写のあった、
映画『悪人』と、漫画『ザ・ワールド・イズ・マイン』との比較から、
その原因を考えてみたいと思います。


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『悪虐』においては、何人かの登場人物が登場しますが、
作品を紹介する上では、二人出せばもう十分です。

amazonの紹介文より引用。
「最愛の女を救うため、俺は悪魔になる。」
最愛の女性・サキがスキルス性のガンに侵され、余命三ヶ月と宣告された。絶望に見舞われた花崎修二は、サキからさらなる衝撃の告白を受ける。その日から、修二は「悪魔」になることを誓った。何者にもひれ伏さず、慈悲を捨て、己に潜む悪を解き放つ……。道を聞かれた女性の鼻っ柱に額を叩きつけ、通りすがりの少年の顎をライターで炙り、面識のない中学生の少女を家族の前で強姦する――。息もつけぬほど繰り返される、凄まじい凶行。時にそれは、かつての恩師に、そして、サキと酷似する女性にも向かう。サキの命の期限が迫リ来る中で、何が修二を“悪虐”に駆り立てるのか。

花崎修次と、その妻・サキ。

冒頭から、紹介文にあるような眼を背けたくなるような残虐な行為が展開され、
一体この男は何の為にこんな酷い事を・・・!?と考え込まされます。
残虐な行為の最中、最愛の妻との思い出の日々が描かれ、
これ程幸せそうだった主人公が、何故こんな凶行に走り始めたのか、
「今」と「過去」を埋めるミッシングリンクが何たるかを、読者は想像する事になる訳です。

ゴアシーンの凄惨さは、氏賀Y太の漫画程では無いにしても、『ファニーゲーム』位の威力があります。
無論、動物が痛めつけられるシーンも「イタタタ…」となってしまうのですが、
人間が痛めつけられるシーンってどうしても「関係性」が入って来るので、どうしてもより感情移入してしまうというか、痛ましさが増すというか。
花崎が「家族」を痛めつけるシーンは、正にこの作品の「痛み」を最大限に表わしています。

ただ、「悪い事をする悪者」として、何だか主人公が中途半端なのです。
悪事に意味があろうが無かろうが、その当事者、被害を受ける被害者にとっては同じ「悪者」です。
しかし、僕達人間は「関係性の生き物」なので、どうしても「死体を更に強姦した」とか「気絶してまだ生きてる状態で、焼死させた」とか。既に被害者本人の意識とは無関係の所で行われた悪事に対しても、ただ殺すより酷い事をしたという印象を受けてしまうのです。
特に日本人は葬式に手間をかけたり、馬鹿みたいに高い墓石を買ったりね。

「花崎の殺し」は有意味性も無意味性も弱い。

最後まで読み進めると、というか多分中盤辺りで気付くと思うのですが、
花崎が「悪魔になる」と決意すること、その理由は確かに納得出来ます。
納得は出来るけど、「ソレ」でそこまでやるか?という感じがどうにも…
まぁ「愛ゆえに」と言われてしまうと、愛の深さとかは主観的なものなので何とも言えませんが。

かといって、大いなる目的の為にポンポン殺していく、もしくは大した理由も無く殺しそのものが目的で殺していく、というナンセンスさもありません。
「守る為」に意味を持つ事は強さにつながると思うのですが、
「攻める為」に意味を持つと揺らぎやすくなって、弱くなると思うんです。
つまり「何かを守る為の闘い」は、「そのモノを絶対に守り抜く」という決意が人を強くしますが、
「何かを奪い取る為の闘い」は「何かを絶対に奪い取る」以外の条件、自己保身とか過去との決別とかでは、攻める為に必要な飢餓感が弱いのです。
花崎はそこんとこが、守るんだか攻めるんだかが結構どっちつかずで、残虐描写の意味を薄める事になってしまっています。
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映画『悪人』においては感情的な悪、意味のある殺しが描かれます。
主要登場人物。

・いわゆるビッチ、スイーツタイプの保険勧誘員の女性(満島ひかり)
・海辺の町で解体業に従事する主人公の青年、対人スキルが無く出会い系を使って出会いを求める(妻夫木聡)
・高級旅館の跡取り息子、ボンボン大学生(岡田将生)
・保険勧誘員の女性の父、床屋の店主(柄本明)
・紳士服量販店の店員(深津絵里)
・親の居なくなった青年を育てた、青年の祖母(樹木希林)

ビッチと主人公が出会い系を使って出会い、主人公はゾッコンになるものの、
ビッチは金を持って無い・面白くない主人公に興味が薄れる。
主人公の眼前で、出会い系で出会った別の男・ボンボン大学生と去って行く。
しかし、ボンボン大学生は、何かウゼェ、とビッチを夜中の峠に置き去りにする。
その際、車から蹴り出した為、ビッチは鉄柵に頭をぶつける。
ビッチ、死ぬ。
実はその死は鉄柵のせいではなく…

やるせない主人公は、以前メールのやり取りを少しだけした紳士服の店員に会いに行く。
全く関連性のない二人ながら、
「ずっと抱えていた孤独感」を共有出来る人間である、と互いに確信し、逃避行へ。

映画のタイトルからして、というかポスターやCMのイメージからして
主人公が悪人なんでしょ?という思い込みで見たのですが、良い意味で裏切られて非常に良かった。

勿論「悪事を行う人間=悪人」な訳ですが、上記の主要登場人物6人全てが、「悪人」だからこそ、このタイトルが非常に生きているように思いました。
その「悪事」には、「悪意」が必ずしも付随されてる訳ではありません。

親は万能ではないのだから、ちょっと位甘やかして育てる事もあるでしょう。
生理的に嫌な人間からは、誰だって逃げたくなるでしょう。
ある程度歳を喰ってくれば、パートナーには将来性を重視するようにもなるでしょう。
共感を得た人間を助けてやりたいと思うわがままさも主張したくなる事が在るだろうし、
脅迫されたら、警察に相談するより前にその場で「どうにか」したくなる。

親鸞は「悪人正機」という言葉を掲げましたが、
これは別段悪人だって天国に行けるんだから心配すんなよ!等というノーテンキな心境から出た言葉ではなく、
人間の本質、生命の本質が、他者を殺す事で成立している「悪」なのだから、一度や二度の悪事で人は悪人になるのではない、生まれながらに悪なのだ。という考え方なのです。

この映画では一見殺しを行った犯人が「悪人」として祀り上げられるような、
ヒロインの台詞中にも其れを潜ませてミスリードを行う様な事をしていますが、
その実、全員が「悪」であり、生きる上で悪を行わざるを得ない事、「悪人正機」的な無常感を、その登場人物たちを通して描いているように僕は思いました。
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漫画『ザ・ワールド・イズ・マイン』の主人公は二人。

「俺は俺を肯定する」「命は平等に価値が無い」と言い放つ、究極のエゴイスト、モン

その圧倒的暴力性に惚れ込み、最大の協力者となる、トシ

二人合わせて「トシモン」と呼ばれるようになる、殺人鬼の物語。

漫画自体は、このトシモンという殺人鬼と、ヒグマドンという怪獣の進撃との、二つの脅威に晒される日本を、人々やその心理を、描く作品です。

モンは上に書いた通りの横暴さ、個人の横暴さを通り越した天衣無縫さともいえる個人主義者で、タイトルのような思想性、「世界は自分のモノである」を柱とする人間です。その柱、目的の為に、躊躇なく、差別なく、人を殺します。

トシは「フツーの人間」です。冴えない人生を送っていて、たまたまモンに出会って「しまった」が為に、それまでの自分の道徳性、理性、社会性、願望を隠していたモノを吹き飛ばされ、躊躇いながらも殺人鬼と化していきます。

モンが殺す際に、相手を殺してやろうという殺意はありません。
彼にとって自分以外の人間は「障害」でしかなく、ヒグマドンと同じ様に、ただ自分の進路に居るというだけで殺す理由に成り得ます。そこには他人をどうこうしてやろうという悪意・害意も無ければ、なるべく苦しまないようにという慈悲もありません。在るのはただ暴力のみ。

「善悪」という価値観は、他者が存在して初めて産まれるモノです。モンは法律的に「悪」ではあります。しかし、彼の世界には他者が存在しないのです。一応、相棒としてのトシを認識しては居るのですが、全く彼の言う事など耳に入れようともしません。殺す側・殺す側には何の関係性も無く、ただ行きずりで、殺す。
「モンの殺し」は、全く何の意味も無いのです。
「何となく」とか「腹が立った」という瞬間的な理由付けすらなく。
だから、野生の生物のような恐ろしさがあります。野生生物と違うのは、自分が暴力を振るえるという自覚を持っている事。道具を扱えるという事を知っており、殺した後の結果が食料を得る以外にも在る事を知っているという事。
限りなく野生に近い思考を持った人間、だからモンは怖いのです。でも、客観的悪者ではあるけども、主観的悪者では無い、非常に性質の悪い、悪者なのです。

その点、トシは『悪虐』の花崎に近く、初めての殺人に涙を流し、吐き気を催しながら、必死で殺し、やがてそれが加速してどんどん殺人者としての風格を表わしていきます。
けれども、花崎と違って、トシは「一番大事な人の死」によって、真に殺人鬼として目覚めていきます。そう、「フツーの感性」を持っているのなら、タガが外れるのは「大きな喪失によって」であり、「フツーじゃない感性」を持っているのなら「一々そんな事は気にしない」のです。
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此処で持ってくるのはちょっと変ですが、
僕の好きな漫画の一つに『武装錬金』があります。

その中で述べられた台詞。
善でも!悪でも!最後まで貫き通した信念に偽りなどは何一つない!!
其れが社会的に善であっても悪であっても、
意味があろうと無かろうと、
貫き通された何かがある時、虚構中の悪者にも人間本性の美しさ、凄まじさを見て取れるのではないかと、僕は思います。



ジョジョは敵も味方もカッコいいよなぁ。
➼死を思え、恐怖を思え『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』

悪人と少しベクトルの似た映画。
➼闇闇闇。『告白』







「現代日本のグロ」の極北。



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