2011年11月1日火曜日

孤独の美学『アウトサイダー・アート 芸術のはじまる場所』


アーティストであり、アートセラピストであり、大学講師であるデイヴィド・マクラガンによる、アウトサイダー・アートの論考。

結構固めの本でしたが、「現在のアウトサイダー・アート」を語る上では、日本語文献において、例えばパラレル・ヴィジョン展の図録、服部正さんの新書、斎藤環さんの『戦闘美少女の精神分析』等よりも必要な本だと感じました。
この本において、最も進んだ議論が為されている為です。

ちょっと読み下していこうかなと思います。
以下、「本書」の表現は『アウトサイダー・アート 芸術のはじまる場所』を指す。

<本記事を読み下す上で役立つかもしれない記事へのリンク集>
➼語らってみた『アウトサイダー・アート談議 with air_sonshiさん』
➼個人的な「アール・ブリュット」と「エイブル・アート」の違いまとめ
「アウトサイダー・アート」への興味を深めた本。
➼『戦闘少女の精神分析』要旨「ファリックガールズが生成する」個人的まとめ
その著者の講演をまとめたもの。
➼芸術の内側と外側『アール・ブリュットをめぐるトークシリーズVol.1:アール・ブリュット作家の共通性と個別性 斎藤環』
原宿で行われたダーガー展。
➼僕と共犯者に成りませんか?『ラフォーレ原宿:ヘンリー・ダーガー展』


----------------------------------------------
●アウトサイダー・アートとは何か
様々な場所で述べられている、「最初の定義」からきちんと入ってくれます。
つまり、通常の文化的規範の、いわゆる「美術」と呼ばれて評価されて来たものの「外部」で生まれた美術作品である、と。
これがどういう意味かと言えば、正当な美術教育を受けていない独学者、精神病患者、知的障害者、霊能者、幻視者といった、作者が「美術」と無関係な場所に居たにもかかわらず、行われた創作活動によって出来た作品を指します。
此処で重要なのは「作品」という点。
例えば障害を持つ人が作ったものがアウトサイダー・アートになるのか、というとそうではなく、きちんとそれを「作品」として評価をする人が居るかどうか、社会的にそれが「作品」と呼べるほどの完成度・芸術性を持ち得ているかどうか、がそうであるか否かを判断するのです。

この語自体は、フランス人芸術家、ジャン・デュビュフェの定義付けた「アール・ブリュット」(生の芸術)に対して、ロジャー・カーディナルというイギリス人評論家が英訳したもの。

ジャン・デュビュフェが、伝統的なフランス文化、ハイカルチャーというか貴族文化というか、といったものに対し、「ハッ!しゃらくせぇ!そんなんよりもっとカッコいいものがあるだろうが!!」と見出したのがアール・ブリュット。
クラッシックに対するロック、ロックに対するパンク、メタルに対するグランジ、みたいなポジションです。
そうした「カウンター的ポジション」という枠組みを外し、視野を広げるという意味合いを持たせる、という事でロジャー・カーディナルは直訳でなく、「アウトサイダー・アート」という訳をセレクトしたんじゃないか、と思われます。ごめんなさい、これは僕の想像です。

これに対して、著者、マクラガンは「生の芸術→文化に汚染されてないとか、原初の創造性を再現してるとか、そういうのって観る人の幻想なんじゃない?」というスタンスで本書を押し進めていきます。

重要な事なんですが、この本はあくまでアウトサイダー・アートについて語る本であり、アウトサイダー・アートを定義付ける、もしくは新たに定義し直す事で、美術界を変えようとする本では無い、ということ。
そうした「分かり易さ」を求めている人にとっては悪書です。
しかし、本書を読む事で、そもそも「その分かり易さ」は何の意味も無いんじゃないか?と考えさせられるはず。

最初に収録されている図版集が非常に美しい。


●創造性について
現代美術の諸ジャンル、運動名と言いますか、ダダ、シュルレアリスム、スーパーフラット、ポップアート、アール・ヌーヴォー等々、これらはそれぞれの前時代的なモノを乗り越えようとした結果であったり、それぞれの時代の表象を抉り出そうとするものであったり、と何かしらのモノに対する反応である芸術です。
いわば作家達は「僕はシュルレアリスムの作家です」と自分で名乗りを上げて、美術界に参入していくような構造さえあります。

何かがあって、芸術を為す。
外部からの刺激を、創造という反応で返していく。


多分これは「芸術」「創作」全てに共通する原則なのですが、
特にアウトサイダー・アーティスト達は「運動」「ジャンル」という外部刺激に対して反応が無い。
個々のアーティストがそれぞれ「ジャンル」である、と言っても良いでしょう。
彼らの作品は必ずそうした「美術用語」以前に制作され、後になってから「アウトサイダー・アート」として分類されます。
つまり、一切の社会的要請、仕事の為であったり、名声の為であったり、芸術に対する欲求であったり、そうした外的奨励無しに行われるのが「アウトサイダー・アート」なのです。

そんなモノが存在するのか?
外部と、他人と、社会と関わり合う事で生きている人間に、「外的奨励無し」で芸術が創れるのか?
アール・ブリュット、またアウトサイダー・アートという美術用語が残すのは、それ等に分類される作品だけではありません。その背後に存在する巨大な芸術への問い、創造性の本質とは何か?その最も純粋な形は何処に在るのか?それは既存の芸術とどのように関係しているのか?
こうした様々な、「問い」の発端を、アウトサイダー・アート作品は残すのです。

マクラガンは其れ等の「アウトサイダー・アートが問いを残す事」に関して、「神話である」と述べています。
何もこの美術用語を否定する発言という訳ではなく、その問いから生まれる様々な議論・理論に対して、作者達の空想・仮定・イメージは先行する、と言っているのです。
別段「アウトサイダー・アート」という「理論」が無くとも、「アウトサイダー・アート」は存在していた。其処に後から持ち込まれた理論、例えばデュビュフェの「芸術を本質のまま取り出した形=生の芸術、アール・ブリュット」という理論は「観る者の、憧れや理想化から生まれた物語」=「神話」ではないか、とマクラガンは述べているのです。


●受容者にとっての創造性の物語、『創造性の神話』
「アール・ブリュット」と呼ばれる作品群の発見と、それを「アール・ブリュット」と認可する本物の創造性の宣言の間には、循環があります。だからこそ、「アール・ブリュット」を単なる美術用語の一つとして扱う事は出来ません。
その循環の中に立ち現れる、「創造性の神話」について考える事が絶対に必要となるのです。

で、芸術の、とすると本当に壁画を描いていた頃からの「衝動性」から述べていかなくてはならないのですが、
そこからはもう少し進んで、「創造性についての様々な理論」等が生まれ始める頃、ルネサンス期の前後位から話が始まります。この頃から「創造性の神話」が始まる。

芸術家の才能は特別の印に現れるという観念(例えばレオナルドの手記)、
彼らの風変わりで人並み外れた生き方への興味(例えばヴァザーリの『芸術家列伝』)、
創造というプロセスそのものに対する強い好奇心(素描市場の成長がその証拠)、
創作は自己表現であるという前提(情熱や入神を芸術家自身の資質とする)、
そしてイメージが異常な力を持つという信仰(新プラトン主義哲学)

-本書.p67

多分、アウトサイダー・アートに興味がある人が何処に興味を持つか、という点はほぼココに集約されるのではないかと思います。
けれども、それらは新たにデュビュフェが発見したものではなく、中世の頃から存在していた。
それを新たにデュビュフェが自分用に形を整えたのが「アール・ブリュット」という「考え方」だとも言えそうです。

しかし、こうした「既存の創造性の神話」と「アール・ブリュット神話」には幾つかの考慮すべき点もあります。
「アール・ブリュット」の名の下に正典化されたアーティスト達、
アロイーズとか、

ヴェルフリとか。

彼らは自分達が押し込められた異端的カテゴリ、「アール・ブリュット」について何も知らなかったということ。
また、こうしたアウトサイダー達と、17世紀・ルネサンス期の芸術家達、両方に言及される「独創性」とは、絶対的・自然的な価値観ではなくて、その時代で「正統」「王道」とされている価値観に対して「独創的」とされる、相対的な価値観であること

つまり、様々な理論が神話であると片付けられる所以はココに在って、
・外からの主張によって定義される
・柱となる考え方が相対的である
ということは、より広い文化の中に溶け込んでしまうと、その「独創性」は薄められざるを得ないから、なのです。

また、「外からの主張によって定義される」という事に関してもう少し論議を深化させると、
芸術や創造には病と苦難が付き物であるという観念(本書p.69)が存在する、とマクラガンは述べています。
ちょっと「芸術家」という言葉を想像してみて下さい。自分が深く芸術に没入している人間でない限り、浮かぶイメージは「一般社会から理解をされなくとも、ひたすら自分の道を突き進み、超世俗的・超個人的に創作活動を続ける」ってとこでわ。
で、割とそうしたイメージから想像で補完して、僕達は「アート」に接する。

けれども、アーティスト本人はそもそもそうした「苦難」が苦で無い場合がある事も、考えなくてはなりません。
個人的にかなりガッと来た、アルトナン・アルトーの言説の引用。
私は生まれてからずっと病んでいたが、ただそれが続くことのみを願っていた。なぜなら生命力欠如のお陰で、私は常に、プチブルどもの言う「健康第一」というお題目よりも、自分の持つ力に敏感でいられたのだから。
-本書.p70
作品から、作家を判断する、という誘惑。
それに駆られて、そもそも「文学」などという学問分野が存在するのだと思いますが、それはまた不可逆に「作家自身」を排除します。そして、「観る人の過剰な幻想」を優先してしまう。
それはつまり、「作品そのものを観た時のインパクト」と「その制作者がアウトサイダーであったインパクト」を重ね合わせて「酔う」感覚
本当は、その制作者のことなど、本人以外には分かる筈が無いのに。


●「それ」を「アウトサイダー・アート」と呼ぶこと
しかし、前述したように、「アウトサイダー・アート」とは、既存のジャンルとは違って、それに属するかどうかは作家以外の人間の判断するところであって、作家が自分から「僕はアウトサイダー・アーティストです!」と挙手して、自らそこに属することは出来ません。
その作品が、このジャンルに属するかどうかは、「過去のこのジャンルの作品」、ヴェルフリ、アロイーズ。または、ダーガー、シュヴァル、山下清など。既に制作された作品群に照らし合わせて、決定されます。

このジャンルは、成立した時から、本質的に作家を排するようなジャンルなのでは、と僕は思います。
例えばヘンリー・ダーガーの例を持ち出すならば、

孤児にして敬虔なカトリック。病院職員の仕事をしながら生涯を孤独に暮らす。1万5000ページに及ぶ絵入りタイプ原稿『非現実の王国で』を制作。これは7人のヴィヴィアン・ガールズとグランデリニアンの戦いの物語で、多数の挿画を含む。多くのアウトサイダーと同様、ダーガーは自分自身の技法を考案した――非常に大判である彼の絵は、普通の雑誌からとったイラスト、主として若い女性の拡大写真をトレースしたものに基づいている。
-本書作家略歴p.005



こうした、作家の背景、「伝記」こそが、「作品の真実性」を高める。
勿論、「作品そのもののインパクト」は実在します。けれども、その作家の伝記に対して、僕達は「勝手な思い入れ」を抱く。熱い想いを感じる。
ダーガー作品における、陳腐な程純粋な子どものイメージと、それを残虐に捻り殺すドギツイイメージとのギャップには、時に嫌悪感を抱かされる。でも、同時にその光景と伝記を重ね合わせて、心の中に「ダーガー」を創り上げる時、切ないような、共感するような、極度の自己同一化が起きる事があります。その「矛盾性」は人間が誰しも持つモノで、見たくないモノでありながら、懐かしいモノでもあって。

狂気とは、独創性とは、オートマティスムとは、内密性とは、芸術とは、アウトサイダー・アートとは。
それは作品を通して、作家に問うのではなく、自分に問う事。作家が自分自身のみの為にその作品を創り上げたように、閲覧者もまた、その「作家性」を無視して、己自身に必死に問いかける。例え、作家自身が自分自身のみの為に創り上げた、ということが閲覧者の思い込み・幻想・神話であったとしても、己に問いかけている自分そのものは「真実」です。

何故、その他の呼称では無く、「アウトサイダー・アート」なのか。
「アウトサイダー・アート」に触れ、そうした問いを持たされた時、必死で問いかける事が、僕ら閲覧者・冒涜者・外部者の努めて在るべき姿なんじゃないか、と思います。
入り込もうとするな。理解者となるな。擁護者ぶるな。それはあなたの横暴な思い込みだ。

----------------------------------------------
服部さんの新書を読んで、「アウトサイダー・アート面白そう!」と思ったら手を出してみるのがよいかも。

0 件のコメント:

コメントを投稿