2011年2月1日火曜日

無意味を積み重ねた所に現れる美しさ『海炭市叙景』




案外、突き詰めると大抵のものに意味は無くなります。

働く事、人と関わる事、本を読む事、歌を歌う事。
それらはそれそのものには意味がありません。ここで言う意味とは、「生きる上で必要かどうか」という事ですが、それを言ってしまうと意味を持つモノなんてどれ程あるか。
でも人間は貪欲です。ただ生きるだけで満足出来ず、何かに触れて、何かを創りたがります。



今回僕は『海炭市叙景』という映画を見に行きました。
ほんとを言えば、別段この映画が見たかった訳でも、僕が支持する人が関わっていた訳でもありません。たまたま、ブックスタンプラリーというやつを京都みなみ会館という映画館と本屋さんが協賛して、1500円の入場料が1000円になるから、という理由で見に行ったのです。
僕は金の亡者です。虚無。

この映画は、函館市を模した「海炭市」という街で暮らす人々の姿を淡々と描いた物語です。
原作者、佐藤泰志さんは函館出身。
三島由紀夫賞や芥川賞の候補作となるも、目立った受賞歴を残す事無く、
41歳の若さで自殺されたそうです。

映画には全体に諦観が漂います。
主人公不在のまま、カメラは様々な人間にスポットライトを当て、
当てるだけ当てると、次の人間へとくるくる画面を変えていきます。
オチも無ければ、同情も無い。

しかし、人生とはそうしたもの。
どんなに苦しくても終わりは来てくれないし、逆に終わって欲しくない所でパッと終わってしまう。
願いを重ねた所で、何処にも天国や地獄は無いのです。在るのはただこの世だけ。
外から眺めた所で、其処に見出した意味など当人にとっては称賛でも嘲笑でも同じ事。
「ハッピーエンド」とか「アクションシーン」なんてモノは、『スクリーンの中の登場人物』にとっては「ワンシーン」でも、『体験者』にとっては単なる「毎日」でしかない。


でも、その中に様式美が立ち現れるのです。演技を越えた、向こう側。

老婆の老婆故の皺。
ぼこぼこに殴られた酔っ払いが背広に突っ込む靴下の情けなさ。
悔しさに殴るハンドルの立てる虚しい音。
ヤクザ者が憐れんで咥えさせた煙草の不味さ。
兄妹の見せる背中の抒情。
自分の営業努力ではどうしようもない商品。

ブロックを重ねていくだけでも、芸術品は創れるのです。
シュバルの理想宮を見て、誰が「ただの石だ」なんて評価出来るか。
善悪にどちらも偏らない、無色透明な美しさ。

「海炭市」という風景は、映画に書き写される事で何とも綺麗な作品になりました。
僕はちょっと途中で寝てしまいましたが、
それもまた楽しみ方なんじゃないかと割と思えてしまう作品。
自分の街は、どんなだっただろうか?


まだこれから上映って所もけっこうあるみたいです。
『海炭市叙景』公式サイト


「何者にも成れないこと」を絶望する必要はない。
➼飛べ!雌豚!『あぜ道のダンディ』

ナンセンスという美学。
➼私達もまた、ねこになるしかないのだ『ねこだらけ』

映画化によって、絶版になってた本作を含め、佐藤さんの著作が何点か再刊になってるようです。


DVD。

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