2013年3月17日日曜日

何回も生きて、何回も死ぬ話『スピリットサークル』『そらいろのかに』『悪と戦う』

毎日、「あー、さっきこうしときゃ良かった…」と後悔するばかりで、
一向に前進出来ない私です。

だからこう、輪廻転生とかタイムマシンとかシュミレーテッドリアリティとか、
そんなことばかり夢想してますが、実際に何百・何千とやり直しが出来たとて、
その都度「こうするべき未来」を選択出来ずに結局俺は同じ道を辿るんじゃないか、とか
ありもしないSF設定で悩んじゃうんですよね。
中学生でもないのに。中学生でもないのに!!

何回も生きて、何回も死ぬ話、三編。
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『惑星のさみだれ』終了後、水上さんが次作に選んだテーマは「輪廻」。
スピリット・サークル』、ヤングキングアワーズでやってます。

額に十字キズのある美少女・石神鉱子
特に何の特徴もない、中学二年生・桶屋風太(酷い名前w)の居るクラスに転校して来た彼女に、風太は言われます。
「生まれ変わりって信じる?」

…順当に行けば、これってアカラサマにギャルゲ的展開へのフラグなんですが、「王道少年漫画」の俊英、水上悟志が、そんなに分かり易いモエモエを描く訳はありません。

彼女は某猫型ロボットの如く、物理化学を無視して中空から謎のリング・スピリットサークルを取り出して、それで風太を殴りつけます。

その衝撃で殴られた風太は「フォン」という謎の少年に「なります」。
そう、これは「風太が前世の記憶を全て体感する物語」なのです。

ヒロインかと思われた鉱子さんは、風太に対して「あんたにはあと7回死んでもらう」と言ってのけ、一巻においては風太は+2人分の人生を体感することに。

この物語の面白い所は、「生まれ変わりって信じる?」とか、ヤケにとって付けた様な濃いキャラの友人達とか、余りにマンガチック過ぎるアイテム造型とか、そうしたアザトサが全て「因縁」によって成立している所。
読み始めは「何だコレ?」と思わせるギミックが、少しずつ風太が「人生」を体感することで、説得力としてきちんと重みになっていくのが堪らない。

一巻の最期で見せる風太が涙するシーン、是非とも読んで頂きたい。
人が生きて、死ぬことで、それが少しずつ繋がりになって、同時に呪いになって、世界が少しずつプラマイどちらにも進んでいく、そんなことが感じられる快作です。


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ほぼ同時期に、ふみふみこさんも「輪廻」を主軸に据えた作品を打ち出しました。
そらいろのカニ』。

「それは 何度も 何度も 繰り返す ぼくたちの」
というモノローグで開始する本作。

「カイ」と「エビ」という名前の二人、いや、二つの存在が、出会って、別れる、それだけの話。
二つは、時代・性別・姿形を変えて、何度も何度も出会うのですが、その度に、死別であったり憎悪であったりと、何らかのマイナス要素で別れることになります。
「カイ」は、その運命に絶望し恭順し、それでもエビを欲します。
「エビ」は、その運命を憎悪し諦め、それでもカイを欲します。
二つとも少しずつ向き合い方は違うけれども、欲し合っている、というところがミソ。

一話目の「おれ おまえが好きなんだよう」というカイの言葉が、それを軽蔑する様な眼で見つめるエビが、一話だけだと「ドSとドMのドロドロした恋愛」で終わってしまうのですが、「時代・性別・姿形を変えて、何度も何度も出会って、別れること」を通して、また最終話に同じシチュエーションでの話に戻って来た時に、全然印象が変わって来ます。

さきほどスピリットサークルのところで、繋がりは呪いだ、と書きましたが、
本作を読むと、繋がりは呪いで、更に愛で、憎悪でもあることを否応無く感じさせられます。

ただ、この『そらいろのカニ』は
さきほどの作品と違って作中の登場人物が「輪廻」を自覚している訳ではありません。
最終話付近において、「エビ」が、何度も繰り返している様な気がする、と気付く程度です。そんな彼女の、諦観を聞かされた「カイ」の反応が素晴らしいのです。
ちょっとニーチェじみたことを言いますが、
どんなに絶望的な繰り返しの連続であっても、そこにちょっとした光を見つけて前進し続けられるのが、人間の美しさだ、って言っちゃうような、美しいエンディングです。

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「ミ!」「ア!」「を!」「あ!」「い!」「し!」「て!」「る!」

高橋源一郎『悪と戦う』。
ある小説家と、その妻と、二人の子ども・ランちゃん、キイちゃんの話。
物語は一見、作家・高橋源一郎のエッセイじゃないか、ってくらい個人的なところから開始します。
二人の子どもが生まれたこと、でも下の子どものキイちゃんがちょっと言葉の発達が遅いんじゃないかってこと、公園で出会った親子、その娘の顔が奇形であったこと。

そしてそうした日常を置いてけぼりにして、「「悪」と戦うランちゃんの夢」が開始します。ランちゃんが、幾つもの可能性≒「悪」≒ミアちゃんを、「自分の人生」として何度も体感することで、それへの抗い方ではなく、それが存在することを自覚していく、そういう話です。

私的な感情・暴力で他人を従わせる「悪」。
罪無き人に、大多数の他者の罪を背負わせる「悪」と、それを自己犠牲的に受け入れる、罪無き人の「悪」。
本当の自分的な何かを追い求めて、他者の人生を犠牲にする「悪」と、やっぱり犠牲を受け入れちゃう「悪」。
死者・弱者という、弱い立場から無理を通そうとして来る「悪」。
いずれも現代社会にはびこる、様々な「悪」の形が、ちょっと残虐な感じで寓話的に描かれます。

日頃、俺を苛立たせる「悪」の数々。
でもそれって「悪」なの?と尋ねて来る本書。
パッと読める本なだけに、論理も明快です。
そう、それは「悪」なんです。でも、それを取り除くことは出来ないし、それなくして社会は成立しない。
人と人との繋がりが生み出す呪い、これを「悪」と言い換えることも出来ます。ただ、この本でランちゃんが何度も生きて、何度も死ぬことで見せてくれたように、人との繋がりがそう簡単にブチブチ切れぬように、「悪」もまた未来の可能性の一つであって、今存続している世界を支える一要素であり、切り離せない。僕たちは「悪」と、呪いと、闘い続けなければならないのです。人間だから。

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彼らが紙上で見せてくれる、何百・何千の生死は結局のところ、「僕たちの毎日」なのです。僕らは一回こっきりしか、生きること・死ぬことが出来ませんが、人との繋がりを維持したり切り離したり、いくつかの可能性を選択したり捨てたり、ってのは結局「生きること」「死ぬこと」だと思うんですよ。
っていう生きる並・死ぬ並の、ギリギリをくぐり抜けて「日常」が成立してる筈なんです。凄い確率だと思いますよ、日常を生きてる、ってのは。

だから、しんどいですけど、今日も頑張りましょう。僕らは何度も死ななくても、ある程度彼らのおかげで「可能性の幅」を知ることが出来るのですから。
頑張ろう。

大好き過ぎる星屑ニーナと、時間を主題にしたSFのなんやかんやについて。

人生何が起きるか分かったもんじゃないですね。
➼混沌の中から拾い上げるという強さ『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』

「今の所の俺」にとっては「可能性」でしか無い暮らし。一生「可能性」に止めておきたい
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