Subbacultcha

「サブカルチャー」という括りの下、文学・芸術・漫画・映画等について述べます。

2010年7月8日木曜日

至高のリライト『ドリフターズ 1』



あさりよしとおの言葉だったか、
「オリジナルなんてない。与えられた素材の中でどれだけ個性が発揮出来るかが作家性というものである。」
うろ覚えなので間違ってるかと思いますが、この物が溢れ返る世の中、完全にオリジナルたることは無理です。
自分がやってる事はやや違うだけで、世界の誰かが必ずやってます。
それでも出来不出来、順位、そして個性によってその「やや違う」が客観的には驚くほど別のものに成り得るのです。

終わらぬユキちゃんサーガ『クロなら結構です』


 流行は大体十年ごとに交代する、というのが僕の持論。
 オリジナル→脱却→リメイク→脱却→リメイク… というループは至る所に見られるんじゃないかと思います。ロックシーンでのいわゆる00年代と呼ばれた人達は、90年代の商業的・懐古的な所からの脱却を目指して、その一個前の80年代を元にして流行の電子系を取り入れていったイメージがあります。…あれ?それリメイクじゃね?まぁいいや。ダンスミュージックを取り入れ、シンセやエフェクタをガンガン使うことで、90年代に育ったキッズ達に「すごい!新鮮!」と思わせることに成功した00年代達ですが、困った。皆ダンスロックみたいになった。次の2010年代は何処に逃げ道を探す?
 そこで90年代日本のバンドブームのリヴァイバルです。ハードロック、パンク、J-pop。
 今、日本で受け出したバンドは確実にそこを押し出していってます。モーモールルギャバンの台頭はそれらを基調としている故の00年代のバンドの中での目新しさに原因があるのではないでしょうか。

 どうしようもなさ・駄目さの肯定。社会から自分への不当な評価。自己責任を大義名分にしながらいざとなれば人のせい。そうした「ゆとりっぽさ」は組織側からみたらもう、無用の長物所か邪魔で仕方が無い訳で、ある程度人間が出来たネットに左右されない程度の意思を持った人間なら、普段はそれを押し殺して生活してます。音楽を解放のツールとするなら、それを声高らかに歌ってくれる歌がどんなに価値のあるツールか。

 「非モテ」「駄目人間」をテーマとして、モーモールルギャバンはJ-pop臭いメロをまるで感情がそのまま吹き出して来たかのように、色んな表情で鳴らします。今作では、インディーズ時代の泥臭さを残しながらも洗練されたレコーディングにより「聴けるCD」としてモーモールルギャバンを聴く事が出来ます。ある程度曲調の好みはあると思いますが、これでロックリスナー以外にもちゃんとオススメ出来るようになりました。

 インディーズの頃から一枚に一曲、「ユキちゃん」に対するラブソングが入っています。大好きな彼女・ユキちゃんへのラブソングはやがて未練タラタラの失恋ソングになり、思い出となり、人の妻に成り。今作でユキちゃんは母となりその娘に恋慕するというアンモラル具合を増した歌になってましたが、ボーカルのゲイリーさんが心の「ユキちゃん」を捨てるつもりが無いのがよく伝わってきます。
 
 ユキちゃん=根源的一者=神という図式が崩れぬ限り、このバンドの「ユキちゃんサーガ」は途切れません。ぜひ大物になって欲しいバンド。