Subbacultcha

「サブカルチャー」という括りの下、文学・芸術・漫画・映画等について述べます。

2010年10月31日日曜日

漫画も良いけどバンドもね『無限の住人』



雨が降りそうで降らない。
今日みたいに何とは無しに灰色の雰囲気が街に蔓延するような日には、気軽に爽やかな気分になれるフレンチ―やらスウェーデンやらのポップい感じのよりも、僕はHR/HMを聴きたいような気分に駆られます。
でもへヴィーなメタルはちょっと大げさすぎて、あまり展開が面白くないモノが多い。まぁそんな偏見から僕は言うほどメタルというジャンルに興味が無くて聴いてないのです。Horse the bandみたいのなら大歓迎。

「人間椅子」は大げさなカッコよさで技術をひけらかすメタルという音楽に、文学性と日本の民族性を追加した、謂わばスーパージャパニーズメタルバンドなのです。

2010年10月26日火曜日

「小説」の限界に挑め『実験小説ぬ』



パソコンが全盛期となった世の中でも、「手でかく」という人も一定数。なんとなーくですが、このちかちかするモニターというやつに面と向うより、紙に向き合う方が想像力が刺激されるような気がするんですよね。でも、手で書くと、手が疲れるし、また字を写し直さなくてはならない。修正も難しく、漱石先生の生原稿なんかきったないもんですよ。だから、皆パソコンで原稿を書く。

2010年10月19日火曜日

日本的空間に痺れる『赤い雪』



「自然淘汰」という言葉があります。弱いものはより強いものによって、淘汰されていく。
アメリカの強権によって、世界はどんどん英語化が進んでいきます。
中国の社会主義がひっくり返ったらどうなるか分かりませんが、今の所世界は英語化に向けて進んでいってます。

この狭い日本という国でも、どんどん方言が淘汰され、いわゆる「標準語」が幅を利かせています。僕は東京弁と言い張っているのですが、物事何でも基準が必要らしく、「よくテレビで使われる言葉」が日本語の基準となっているようです。
方言原理主義者的な僕は、現在関西在住ですが、関西弁に抗って、意地でも故郷の方言を話すように意識しています。
最近は大分そのシールドも剥がれかかっており、非常に気恥ずかしい日々を送っています。

僕は、「方言女子」がとても魅力的だと思っています。
この東京弁が幅を利かせ、その他方言がマイノリティとして退けられる理不尽な世の中において、胸を張って、「田舎から出てきたこと」をアピール出来るカッコ良さ。また、マイノリティであるが故にちょっと破壊できる、標準語で構成された日常のマンネリ感。
もっと、地方出身者にはがしがしお国言葉を使っていただきたい。その方が人間としての魅力が滲み出るのではないでしょうか。

2010年10月15日金曜日

本気で作りすぎると大抵ギャグになっちゃいます『ナイトアンドデイ』



ハリウッド映画はみんなから愛される一方で、一定数叩く声も存在します。
僕はハリウッド映画を見ていて、映画の中身が面白くないということではなくて、CG・VFX、セット、画面の特殊効果など凝りすぎてて、逆に白けるということがあります。
アレですよ、恋をしてる時はすごく魅力的に見えた相手のことが、いざ付き合ってみるとどうでもいいところばかり目について冷めてしまう、という割合理不尽な意見。

物事には何でもある程度の駆け引きが存在して、
押したり引いたりしないと、押すばかりではそれがどんなに良い押し方でも押されてる側からは飽きられてしまう。
というのを理解せずに、とにかくたくさん金かけろ!有名人使え!これもこれも入れた方が面白くなるんじゃね!ていう風に量産される大作映画。

どんなにいい脚本でも、「大作風」というレッテルが貼り付けられるハリウッド映画はある種可哀想とも。

2010年10月12日火曜日

『戦闘少女の精神分析』要旨「ファリックガールズが生成する」個人的まとめ



それでは戦闘美少女が如何にして生成したか、という本書の本論部分「ファリック・ガールズが生成する」をまとめていく。何度かこの章だけ読んだが、よく意味がわからない。度々引用されるラカンやベルクソンについて僕自身が少し理解をしておく必要がありそうだ。

2010年10月4日月曜日

魔法の指環なんか無くたって通じ合える『ソロモンの指環 動物行動学入門』



昨日は京都・ベジタリアンフェスティバル2010に行ってきました。
ほんわかした雰囲気と、美味しいベジ料理で楽しく一日を過ごしました。別に菜食主義を悪く思ってるわけではないのですが、まぁこれも一つの宗教な訳です。宗教と同じく、行うのは時間とお金のある人間。または、考えすぎて内省世界に没入しすぎた頭のいい人間。
故に後者が、自己の学問分野を越えて理論・学問・権威を背景とした主張を行い、それに説得されてしまった前者と共にコミュニティを形成しているのが現状のベジではないでしょうか。
昨日もちょっと笑ったのが、毛皮製品の採取方法を紹介したパネルを見たノーマルの同行者が「週一日菜食の日を作る」と言い出したこと。いや、それ以外肉食の日があるなら何の意味もないだろ、と。

なんか攻撃的というか、批判的に書いていますが、それは「地球のため」「動物のため」論調が苦手だからです。僕自身も高校生のとき屠殺の現状を知り、自分で生活するようになったら動物を殺さない生活をするんだ!と人知れず燃えていました。無論主張内容は違いますが、新興宗教の入信パターンとそっくりなんですよね。

1.「死」「不幸」といったショッキングなイメージを与える(屠殺、毛皮、環境破壊)
2.それを回避する方法の提示(入信のススメ)
3.実践者の声(既存の価値観とのズレを埋める)
4.みんなで世界を変えていこう!(共同意識)

結局の所目先の変化ではなく、将来の大きな目に見えない変革を目標に据えるとこんな事になってしまいます。
本当に動物の事を思っているなら私財を全部投げ打って家畜やペットを買い取って暮らせる施設を作るべきですし、政治家になって「肉食」という風潮を変えていくべきです。思いやりを持つ事は非常に大事ですが、自分が肉を食べないことで動物や地球に良いことした感を持つような、自己陶酔的なものになるのは嫌だ、とセミベジの俺は思うのです。