Subbacultcha

「サブカルチャー」という括りの下、文学・芸術・漫画・映画等について述べます。

2015年4月21日火曜日

それでも食える方が良いのか「ボラード病」「Q通り十番地」

「食戟のソーマ」アニメが始まりました!
連載開始当初から、「ジャンプでエロ漫画ハジマタwwwww」等と大喜びしていた自分にはとても嬉しい話だったのだけど、食材・ご飯の描き方にとても力が入っていて素晴らしいアニメ化ですね。
そのアニメを観ていて、ぼんやりとヘレン・マクロイ『歌うダイアモンド』所収「Q通り十番地」、吉村萬壱『ボラード病』のことを思ったので、つらつらと。



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歌うダイアモンド』は創元推理文庫による、ヘレン・マクロイ傑作選。
これで初めてマクロイ作品を読んだのですが、『たんぽぽ娘』ロバート・F・ヤング的な美しさに満ちた世界終末SF「風のない場所」、久正人『グレイトフルデッド』を想起するような「外部の人間が描く魔都」感に溢れた中国描写の「東洋趣味(シノワズリ)」、等ジャンルとしての多彩さもさることながら、文章の雰囲気が作品ごとに全く違っていてなんともカラフルな印象を受ける本でした。

その中でも個人的に印象に残った「Q通り十番地」。

ある女性が、治安の悪い街の裏手にある酒場を訪ねて行く。彼女は「何か」を欲してその法律を犯している雰囲気のある店を訪れる。その店の席に座った彼女は、おずおずと店主に注文する。
もしよかったらーええと、できれば…本物のパンが一切れ欲しいの

…そんな意味ありげに伏線張っといてパンかーい、と笑いかけましたが、この世界においては「合成食品」「合成衣料」の技術が確立しており(余談ですがドラえもん映画「アニマルプラネット」で水と空気と光から食料を作る道具が出てたんですが、幼い頃から「こんなものがあれば働かなくて済むよないいなー」等と小賢しいことを思っていたのですが今じゃサラリーマンだなんてお笑いですハッ)、生物から食料等を生成する必要が無くなっています。
逆に、「大量生産・大量消費社会の構造を脅かすもの」として、「自然食品を食べることが違法行為」となっている社会なのです。そして、法を犯すリスク・また製造にかかるリスクから「パンは100ドル、バター1かけ25ドル」(大体13000円くらいか)という超高額で自然食品が提供されているバーに、主人公は訪れるのです。
またそのね、禁欲的なものに触れる背徳的な雰囲気からなのか、食べ物の描写がイヤに美味そうなんですよ。

でも将来的に、今の勤務形態のまま、食料が超高騰したら、俺もこの主人公の女性のように必死の思いで暮らしの中でやりくりして「食事代」を作らなければならなくなるのかしらん、と末恐ろしく思いました。
ブラッドベリの『華氏451度』を想起させる、「絶対無いとは言い切れない、現状からすると恐ろしい社会構造」が想像力豊かに、かつ美しい文調で描かれる名短編でした。

吉村萬壱『ボラード病』
こちらも上記小説と同じく、ディストピア小説なのですが、読み始めると何の小説だか分からない。
「ディストピア」なんて格好良い単語を用いてるのは帯に書いてあったからです。これネタバレ帯じゃねえか!YAMERO!!!

「恭子ちゃん」は微妙に周りの人とリズムが違います。
「母」はそのリズムの違いに毎日ハラハラさせられています。「恭子ちゃん」には「クラスの皆」が分かる「先生」の質問が分からず、注意をされることがよくあります。
ですが、海塚市民なら歌えて当たり前の「海塚讃歌」を声を合わせて歌うことは出来るのです。

めだかボックスの球磨川先輩じゃないですが、俺も思わず「括弧(格好)」を付けて書かなければいけないのが本書の内容です。

(魚がブヨブヨとしたゴムの様な感じなのですが)「新鮮で安全な地元の食品」を食べることが出来、(授業中に鼻血や嘔吐を示す子どもが居るにもかかわらず)「ずっと健康に暮らすことが出来る海塚市」の違和感を、子どもの視点から描いた小説です。

同じ「社会制度による食料管理への不安」を題材として用いながらも、「皆が平等に同じものを『美味しい』と感じなくてはならない」という点において、上記の「Q通り十番地」とは真逆の内容というのが非常に面白いポイントです。

1950年の第二次大戦後のアメリカは、戦勝国ということもあり、日本のバブル期の様な雰囲気が、もっと骨太な感じで現れていたようです。それこそ「アメリカの黄金時代」といったような。その50年代を経て、63年に書かれたのがマクロイの「Q通り十番地」。
「技術革新と飽食が行き過ぎた時、今食べているものが非常に手に入れにくいものになるのでは」という発想の斬新さは素晴らしいです。

ですが、2013年に地震が起こった日本において、「日常的に食べているものがもの凄く高騰して手に入れにくくなる」はSFではなくなってしまったのです。
何かの事実を隠されたまま、日常的に食べているものがそっくりそのまま別のものになっているのではないか」もしくは「自分たちが何かによって全く別のものに変貌してしまったけれど、それを観測する者がいなければその変化は無かったことにされてしまうのではないか」という、成長期の時代では描けなかった、「イマの日本の作家」である吉村萬壱さんだからこそ描けた、恐ろしい不安に包まれた世界。
それを即座に小説に反映させてしまった恐ろしい受信速度にも感嘆しましたが、二つの時代の二人の作家の、社会に対する反応が全く違う所が面白いな、と思った話でした。

ぜひ読み比べてみて下さい。
あ、間違えた。おあがりよ!!

余談。『ボラード病』のエンディング、早見純の漫画のラストシーンでそのまま変換出来る様なシーンがあったんですが…。思い出したらまた画像載せときます。







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