Subbacultcha

「サブカルチャー」という括りの下、文学・芸術・漫画・映画等について述べます。

2013年1月17日木曜日

森美術館会田誠展「天才でごめんなさい」がホントに天才でぐうの音が出なかった件

森美術館で3/31まで行われている会田誠展「天才でごめんなさい」を観に行って来ました。感想など。
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日本人。
クリスマス期なんかによく言われるのは、「クリスマスと除夜の鐘と初詣を同時期に全部やるなんて宗教的に節操が無い」なんて言葉。一般論みたいに書きましたが、クリスマスに対して嫉妬の炎を燃やす俺の個人的な感想かもしれません、ごめんなさい。


洋服を着て、毎日の飯に米を喰らい、白人様をありがたがり、一体日本人の日本人としてのアイデンティティーはどこにあるんだろー、などと少しでも本を読んだりネットに触れたりする人は考えたことがあるかもしれません。
そういう日本人の節操の無さ、色んなものに驚き、色んなものを吸収し、色んなものに心を遣る。それこそが日本人の、日本人たるアイデンティティーなのか?そうなのか?というあやふやな疑問を、会田誠は自分の作品達によって訴えかけているように思いました。

その余りに多彩な創作形態、創作スタンス。
「彼自身の主張・こだわり」が、一見見えにくいほどにも思えるバラエティーさに富む作品群に、圧倒されてしまいました。

例えば、ある作品では天皇制を批判するような雰囲気が有ったり、ある作品では天皇バンザイだったり、ある作品ではニューヨークを爆撃していたり、ある作品では大量生産・大量消費の現代社会を分かり易く絵にしていたり、ある作品では商業主義の中に美しさを見出していたり、ある作品では幼女の絶対的な美しさを称揚しているようであったり、ある作品では女子高生がズタズタのボロボロにされていたり、ある作品では反自然主義を掲げていたり、ある作品では豊かなビオトープを作ろうと主張していたり、ある作品では死をひたすらに見つめていたり、ある作品では意地汚く生の喜びに執着しようとしていたり、
もうお腹一杯です、と言わんばかりの主張のバラバラさ。
でも、俺はそこに愛すべき人間像、日本人像を見られた気がします。

度々俺は斎藤環さんを引用している気がしますが、斎藤環・もしくはラカン曰く、全ての現代人は等しく神経症者である、と。
例えば3.11という事件を通して、これまで全くの中立スタンスだった人間が、反原発派に回るとか、過剰なテレビのゴリ押しから、特定のアイドルが嫌いになって、特定のアイドルは逆に好きになるとか。
本来不変であった筈のスタンスが、現代社会ではクルクルと移り変わる。それ自体は悪いことでも何でも無く、ただただ「変わる」ということ。
会田誠作品のバラエティーさには、そうした移り変わりに対する批評・批判ではなく、「なんで?」という不思議な顔をした一人のおっさんの問題意識が、ただヌボーンと其処に在る、という印象を受けました。

展覧会後ろの方に、彼の学生時代の代表作らしい、「河口湖曼荼羅」って作品が飾られているのですが、これが展覧会を通して観ると凄くイイ意味が出てるんですよ。
泣き顔と笑い顔が交互に、曼荼羅の如く配置されていて、本来大日如来とかが居る真ん中のスペースには戒律らしき一文が配置。ちゃんと全部は覚えてないんですが、「自然が無い」「他人が無い」「理解が無い」「抑えることの出来る怒り」などなど。
これらが「何」か、上手く説明は出来ないのですが、何となく作品を「展覧会」という流れで見た時、あっ、会田誠は日本人で、日本人と、彼らが生きている社会とを描く芸術家なんだな、と分かった様な気になったのです。

曼荼羅とは本来悟りに至る過程を図式化したものですが、この作品は会田さんが学生の頃、友人たちと河口湖畔に行った時に感じた神秘体験を作品化したものだそうで。その体験で得た認識がこれ。


「芸術が扱うのは本質ではなく表面である」

彼の作品にはある程度の「計算」はあっても、「含意」がありません。

見て、すぐ分かる。会田誠作品の面白さは其処に在ります。
あくまで彼の描くものは「表面的」です。
本展覧会では、彼のヒットの契機となった『巨大フジ隊員VSキングギドラ』や『ミュータント花子』などは過激な作風故に「18禁部屋」に隔離されているのですが、


それらは残虐ながら一様に無機質。
内蔵を露出させていても全然苦しげではないし、女の子とか綺麗は綺麗なんだけど、人形的に感じます。空虚。
俺の好きな漫画家の一人に花輪和一さんという人が居ますが、彼の作品中の血腥さの表現と比べると、会田さんの表現の、何と空っぽなことか。
(『月ノ光』は旧裝版が格好良くてオススメ!)

でもその「空虚さ」が、空虚だからこそ「美しい」のです。


学生時代に会田誠を教えてくれた友人が、『ジューサーミキサー』の様な残虐な絵を描く人が、何故少女崇拝をテーマとする様な(今回の展覧会のキービジュアルになってる『滝の絵』の様な)絵が描けるのか分からない、と言っていましたが、会田誠にとっての「美少女」は「芸術」であり、「表面」であり、「空虚」であり、永遠に手に入れられないもの=イデア=アイデンティティーの根源=そんなもの存在しないんだよ、という虚しさと理想の入り交じった複雑な、一言で言い表せない矛盾した感情が形になって現れたものなんではないか、と個人的には理解した次第です。
そう、逃げっぽいけども、人間は一言では言い表せないのです。矛盾、矛盾。でもその矛盾こそが人間の美しさなのでは、って。
そんなことを思いながら楽しく観れた展覧会でした。
いや、会田さんはホント天才です。

一番最初の画像は、展覧会中で唯一写真撮影が許可されている作品、『考えない人』。
会田さんの創作スタンスを正に体現した様なバカバカしさが素敵です。うんこ。

それから、こちらはこの図版が好き過ぎて中身もよく確認せず買ってしまった本なんですが、


この図版、『大山椒魚』が超大型作品で、こうした大型作品が何個か一つの部屋にまとめられていたのですが、壮観でした。よくこんな大型作品を、40歳くらいの人が何点も何点も残しているなぁ、と。 

余談ですが、『大山椒魚』と同じ部屋に陳列されている『灰色の山』にはウォーリーが混じってる、『滝の絵』の水着少女達のネームプレートは全て滝・水関わりになっている、ということを俺は発見しましたよ。
あと、大山椒魚の絵にグッと来過ぎて、馬鹿高いTシャツを買ってしまいましたよ、馬鹿な俺は…

町野変丸さんはエロマンガ界の会田誠、と言えなくも無さそうです。
➼芸術とそうでないモノ『かっこいい自転車』

展覧会中で会田さんが「部屋も作品も、整理されていない状態じゃないと駄目だ」みたいなことを言ってて、ダーガーを思いました。
➼「部屋が作品になる」ということ 『HENRY DARGER’S ROOM 851 WEBSTER』



あと、このシリーズも会田さんの絵が表紙で素敵ですよね。


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