Subbacultcha

「サブカルチャー」という括りの下、文学・芸術・漫画・映画等について述べます。

2018年3月30日金曜日

ネガティヴは現実を喰い破れるか。『グレイテスト・ショーマン』『テイルズオブベルセリア』『皇国の守護者』


最近見た「グレイテスト・ショーマン」「テイルズオブベルセリア」「皇国の守護者」、三作品が、媒体もアプローチも違うけれども、「悪」「欺瞞」「エゴイスティック」と、一般的には賛美されないものによって道を切り開いていく主人公たちの姿が痛烈だったので、ちょっと文章を書き連ねたいと思います。


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●テイルズオブベルセリア
自分にとっては、おそらく「ファンタジア」「ハーツ」以来、シリーズ3作目のプレイ。
主人公のベルベットは、元々病弱な弟・優秀な剣士である義兄と共に平和に暮らす村娘だったが、ある夜、村に魔物が大量に現れ、その群れを抜け出した先で、義兄が弟を殺す場面を目撃する。
義兄に気絶させられ、目が覚めた場所は深い穴の底。そして彼女の左腕は「魔物を喰らう腕」と化し、彼女は「魔物を喰らう魔物」になっていた。暗い穴の底から、温かな日常を奪った義兄への、復讐の旅が幕を開ける。

…まず「テイルズシリーズ」というやつなんですが、個人の感想ですが「ドラクエ」「FF」を文学とした時に、ラノベ、みたいな立ち位置のシリーズなんでないかと思うのです。ドラクエ・FFがいわば「世界観を描くためのゲーム」であるのに対し、テイルズは「キャラクターを描くためのゲーム」だと言えます。
声優の強調・ボイスドラマ・アニメムービーなどなどが、独特の「オタク臭さ」を醸し出すのですが、本作のゲームジャンルは「君が君らしく生きるためのRPG」(毎回のコレがオタク感を助長してはいますが)であり、プレイヤーが登場キャラクターに思い入れを強く出来れば出来るほど、このジャンル名の意味が身に沁みて来るため、本作に関しては「キャラクターを描くためのゲーム」としてのゲーム作りが大正解・かなりハマっているように思います

まずベルベットが幽閉されていたので服がボロボロなのにナイスバディだったり、マギルゥがその衣装の下半身部分がどうなってるのか気になったり、エレノアのブーツと肌の境い目だったり、で少年ライフィセットがその3人の女性に対するやり取りが強烈なおねショタ感だったり、ロクロウは漫画やゲームの敵四天王で噛ませキャラに使われそうなほどシンプルに「斬りたいだけ」のやつだったり、アイゼンが登場時はその言動の厨二っぷりがあまりに痛々しくて目を背けたくなるような雰囲気だったのに段々格好良く思えて来たり、とパーティーメンバー全員に強烈なドキドキ感を覚えてしまう編成
…とかってのはどうでもよくて、いやよくもないのですが、
大筋としては、「妻(ベルベットの姉)と子を亡くした男が、義妹・義弟を犠牲に、痛みの無い理に満ちた世界を作ろうとする」という大義名分に対し、
「弟と穏やかな暮らしを奪われた私怨から男を殺そうとする女」というエゴがぶつかりに行く物語です。

男・アルトリウスは義妹・義弟を生贄に捧げて、「厄災」と「対抗手段」を可視化し、対抗手段を使役する集団を組織化してその長となり、世界的な英雄に成長していきます。
女・ベルベットは、そんなアルトリウスを殺すために要所要所の障害を破壊していく度に、平穏を乱す存在として噂が先行し始め、「災禍の顕主」、魔王的な存在へと成長していき、世界から疎まれていきます。
…嗚呼、なんてベルセルク的展開
ただベルセルクでもそうですが、圧倒的戦力差・支持の差は一人では引っくり返せなくとも、強力な仲間との信頼関係で、少しずつ物語は前進し始めます。また仲間たちが、エゴだらけで素晴らしいんですよ。

終盤、これまでの旅の目的であった筈の「復讐」が根底から引っくり返され、ベルベットが前進を辞めそうになる場面があります。…裏切りというか何というか、まぁあの声優があんなチョイ役な筈は無いよねとあとから納得するとこでもありますが…ともかく、かなりエグい引っくり返され方をします。
それでも彼女が何とかまた歩き出せるようになるのが、仲間の自己中心的な行動
そして、復讐という最大目的は変わらずとも、よりシンプルに「悔しいから殺す」が最終目標に設定されます。

これはエンディング辺りで明かされることですが、「アルトリウスの大義名分には少し嘘があったこと」が分かり、だからこそ「ベルベットの悔しいから殺すという目標の偽りの無さ」が上回れた、とも取れる結末を迎えます。

世界中から恐れ・憎しみを向けられる主人公が、その中でも仲間との信頼関係を厚くしていき、目標を嘘偽りの無いものに鍛え上げていく。
「自身の悪」を真っ正面から見据えることで、悪を純粋化し、結果、世界を救う物語を完成させていく。ネガティヴな感情と目的で以って進んでいく主人公なのに、なんて爽やかな読後感だろう、と大興奮、2016年のゲームなのに今更ドバドバ感想を書き、もう一周トライ中です。

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●グレイテスト・ショーマン



「グレーテストショーマン」。
P・T・バーナムという実在の興行師を題材としたミュージカル映画。

ストーリーは絵に描いたような「アメリカン・ドリーム物語」なので割愛。恐ろしいのが、

冒頭、バーナムのサーカス「グレーテストショー」のエネルギッシュ・煌びやか・まさに映画、的な歌劇シーンの、嘘偽りの無いポジティヴさにまず涙腺を刺激され、
次にそこに行き着くまでのバーナム夫妻の成長を2分くらいで描く歌劇の、美しさ・愛の素晴らしさに涙腺を刺激され、
二人の子どもがささやかな幸せを感じさせるシーンでバーナム夫妻の歌っていた歌を再度可愛らしく歌い涙腺を刺激され、

と初っ端から、涙腺に集中爆撃を喰らいます。ハンカチのご用意を。

という「全てが嘘」のミュージカルで以って、けれどもその「劇中人物達の嘘偽りの無さを演出する」ミュージカルという技法で以って「現実の悲しさ」を全て打ち破ろうとする映画。過去コレに似た作品を観て衝撃を受けた。「田園に死す」。

バーナムさんは前述のベルベットや、後述の新城直衛の様な、ネガティヴな属性を抱えた人間ではなく、力強く常に新しさを提示し、周囲を引っ張り、という凄くハリウッド的というかミュージカル的な主人公像なのですが、
じゃあなんでわざわざこの三作品を並べたかというと、
作ってる側がミュージカルが嘘だと分かっている作りだったから」です。

・上流階級と下流階級
・人種差別
・障害者
・ハイカルチャーとサブカルチャー
・夫婦
・親子
・愛

「グレーテスト」はこれらの問題を内包させた上で「そんなものは無い!皆んなで歌って踊って楽しくやれば、ハッピー!」みたいに目を背けず、歌や踊りを登場人物の行動や思想の補強のために使い(一度に見せられる情報量の増加)、あくまでその主張の説得力を強め、それぞれの問題に「言わせる」ための「ミュージカル」を実現させました。
故にシーン毎の非現実さはあれど、その行動の結果は決して非現実的なものにはなりません。
初っ端の2・3分そこらで涙腺が爆発しそうになるのはつまり、「登場人物の嘘偽りが無い思いが、(全ての人が願う様な)結果に繋がっていくのが、あまりにも眩しいけれども、ミュージカルだから恥ずかしく無いもん」という感じなのです。

「田園に死す」は虚構で現実に風穴を開けに行く映画なので、「グレーテスト」とはそもそも目的意識が違います。前者は「異世界の風景を連発する事で、無理やり穴を開ける」んだけど、後者は「それでも現実はそびえ立つので上手く折り合いを付けて生きていく」のだった。
髭女、小人、百貫デブ、巨人症等「異人」達が沢山登場しながらも、結局「グレーテスト」のエンディングにおける主人公は、「サーカス」でも「サブカルチャー」でもない場所で静かに幸せに終わりを迎えます。
そこが自分には少し不満な点だったのですが、結局「観客」「興行師」は「演者」と共にステージに居続けることは出来ない、という「現実への帰着」を示唆する終わり方とも取れました。

「本物」で形作る「強力な嘘」は、現実の嘘 ー 人それぞれの違い、生きる場所の違い、立場の違い、本音と建前の違いといった ー「欺瞞」を、それは明確に存在する、と声高に訴えた上で、それが在っても幸せに生きるやり方があると更なる大声で主張する。

なんにせよ見事な、壮大な、「嘘」を観れて、「映画の楽しさ」を存分に味わえる作品でした。

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●皇国の守護者
佐藤大輔による架空戦記。それを伊藤悠が全5巻でコミカライズ。

2018年3/5に伊藤悠がTwitterにて「絶版決定」を宣言したことで古書市場から在庫が一掃、異様な古書価の高騰化を見せました。

…絶版そのものは珍しくも無いし、本作も7・8年前から絶版状態であった筈なのですが、「言われると弱い」んでしょうねぇ…。

ただ、異様な古書価が付く前から、打ち切りの上に、原作者の死去で明確に続きが出ないことが分かっていた筈なのに、漫画ファンに一定以上の評価を受けて居た作品でもありました。

ソースが無いんで不明瞭ですが、原作者が伊藤悠が新たに作り上げた「漫画版新城直衛」を是とせず続きが出なかった、という話がありますが、逆に、この漫画の評価は「日露戦争を思わせる架空戦記」「剣牙虎や龍が混じるファンタジックさ」「戦争という特殊な状況下におけるリアルな人物描写」はおまけで、

新城直衛というキャラクターの主人公らしさとらしからぬ部分の魅力」が一番大きなところでないかと思うのです。


戦闘力・指揮官としての能力を兼ね備えながらも戦況をひっくり返すほどの大それたものは持たず、
顔は良くなく、
英雄的な性格と真反対の狡さ・小心さで、
目的のための手段は、人殺し・嘘・暴力も平気で選ぶ汚さ。

数々の青臭い信念を掲げる兵士や英雄的な指揮官が登場する中で、新城直衛はあくまで「人間である自分」を自覚しています。
決して護国や正義のためでなく、「兵隊は兵隊がやりたいから兵隊をやっている」、
また「やりたいからと言ってやらせるのは間違っている」、という一種のダブスタ的感覚から、下士官の信頼は非常に厚い。
この人に付いていけば間違いない、と思わせる、ブレなさ。

「人間である自分」というルールの中で最大限のベストを尽くそうとするために、その行為や思考にマイナスのものがあったとしても、信念(大筋)に偽りが無い。
ああ、今自分は個人事業主に成り果ててしまいましたが、こんな上司に付いて行きたかった。

「僕にとっては兵をただ名誉のためだけに死なせることは 恥ずべき行為にすら思えるのです 大佐殿 歴史と伝統が許しても 僕自身は毛頭それを許容しません」


たとえ死地に投げ込まれたとしても、そこに到るまでの過程に納得出来るものがあれば納得して死ねるワケで、
一般的に認められない手段や人間として尊敬出来ない部分があろうとも、そうしたもので覆い隠した皮の底に何が在るか、底に何を持っているか。
俺自身は、底に、善人・鬼・神・超人・俗人的感覚を持つ人間よりも、「人間であること」をしっかり見据える人間の側に居たいし、自身もそうした人間であれるようになりたい、と思います

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シェイクスピアや「アラビアのロレンス」の翻訳で知られる英米文学者・中野好夫という人の書いた文で、「悪人礼賛」というものがあります。

善意から起る近所迷惑の最も悪い点は一にその無法さにある。無文法にある。警戒の手が利かぬのだ。悪人における始末のよさは、彼らのゲームにルールがあること、したがって、ルールにしたがって警戒をさえしていれば、彼らはむしろきわめて付合いやすい、後くされのない人たちばかりなのだ。ところが、善人のゲームにはルールがない。どこから飛んでくるかわからぬ一撃を、絶えずぼくは恟々としておそれていなければならぬのである。
その意味からいえば、ぼくは聡明な悪人こそは地の塩であり、世の宝であるとさえ信じしている

「ベルセリア」において、世界中の人の業(感情・思考)を抑制し、理を徹底させるシーンがあります。そのシーンでサラッと描かれていましたが、自身のこれまでを理に照らし合わせることで、悪人であると判断した人間が大量に自死を選ぶ、という。

また「皇国」において、瀕死のお偉いさんを、命を助ける手段も無いのに、お偉いさんだから、という理由で行軍を止めて必死で人命を救助しようとする指揮官が登場します。

それぞれは間違ってないのですが、その「全てを投げ出す闇雲な行動規範」は、自分の生命の責任を乗り越え、他人の命運まで闇雲な状態へ晒します。

・他人を憎む
・綺麗事を言う
・人の命を見捨てる

一見ネガティヴなやり口が、行動が、けれども「闇雲」が広がる事態の中で一筋の道を作り出すことが、ごく稀にですが、あるのです。
ベルベットは魔王に、バーナムは団長に、新城は大隊長になり、それぞれの世界、部下や仲間の運命も背負うことになるのですが、
彼らの行動規範は、紆余曲折ありながらも、結局最初から最後までブレなかった。故に主人公であった
あと、この3人、全く(いや、バーナムさんはちょっと言ってましたが)「自分のやってることは正しい」という風な、規範とか権威とか道徳とかを傘にせず、「自分はこうしたい」というところで共通してて、すごく好きだったんですよ。それが結果、誰かに喧嘩を挑んだり、誰かを踏みにじったりすると分かっていても(聡明な悪人)、言い訳をしなかった強さ。闇と光とをぶつけた時、単純に闇は光に退けられるとは思うんですが、ブラックホールみたいな、広大な、密度の高い闇であれば、闇だって力を持ちうるんじゃ無いか、いや持ち得るんですよ、というお話でした。


信じたいものを信じたい。
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