Subbacultcha

「サブカルチャー」という括りの下、文学・芸術・漫画・映画等について述べます。

2017年1月11日水曜日

家という呪い、家という祝福『奇妙という名の五人兄妹』


五人の兄妹「ウィアード兄妹」は、それぞれに「力」を持っていた。

読む前は最近、うわっすごいぞ!という能力バトル漫画に何個か出会っており、『シナの五人兄弟』みたいのを洋画っぽい味付けにしたしょうもない小説だろ、と思ってましたが、良い方向へガクンと裏切られました

危機を回避する力、道に迷わない力、希望を失わない力、許しの力、戦う力。
兄妹たちの親が双方とも危なっかしい人間のため、親の力が無くとも健やかに育つように、と祖母が掛けた「祝福」。

とまぁこれだけ聞くと、Mr.インクレディブルとかマーベルDCとかそういう話でしょ?となりそうなところなのですが、戦いません

五人がそれぞれに成長するけども、その祝福を「力」と本当に自覚するのは、物語の開始時点・三女アンジーが、祖母に「自分は十三日後に死ぬから、兄妹を集めて来て欲しい。それまでに全員がこの病室に揃えば祝福を解除する」と伝えられてから。

自分の持たされた力の使い道と責任を自覚することで道が開ける、というのは能力バトルの常ですが、そこでスパッと道が「開けない」のがこの「ウィアード」の特徴。

既に成人し、各々の道を歩きながらも、自分に掛かった「呪い」、不思議な運命や与えられた境遇から様々な方向に伸びていった性格・人格から来る「悩み」を抱えて生きている兄妹たち。
成人しているために別々に暮らしているのですが、またそのお互いの強力な「変さ」から、家族は断絶状態になっており、それとは別に両親、父は失踪、母は精神病院、という凶悪な家庭状況になっています。

が、祖母の「祝福を与えた」「その祝福を解除するために全員が集まらなくてはならない」という「呪詛」により、アンジーは兄妹を集めることとなります。

直接関係はないものの、精神科医・斎藤環さんが著書『家族の痕跡』の中で述べていること。
多くのひきこもりを抱えた母親たちが、わが子に「早く自立しなさい」「家から出なさい」という否定的メッセージを繰り返し与えつつ、実はわが子の生活を曖昧に支え続けている。 無限に許す母親がいけないのではない。そんな母親こそ例外的存在なのだ。否定の言葉とともに抱きしめることが、いかに人を束縛するか。ひきこもる本人は、そうした姿勢に秘められた矛盾を意識しつつも、もはや関係の磁場から立ち去ることができなくなる。これこそが私の考える「日本的ダブルバインド」の本質である。
「親子」「兄妹」という関係性、どんなに不快感を伴い離れようとしても、血によって縛られた人間関係「家族」。

ウィアード兄妹は「互いの道を歩もうとしていた」にも関わらず、「祖母の祝福」という呪縛から、また集まらざるを得ない状況を「作らされてしまいます」。
けれども、その作らされた状況・祖母の病室へ向かう旅路の中、グチャグチャになってしまった兄妹たちの関係性はうっすらうっすら再構成されていくのです。

俺の大好きな映画に「ファイトクラブ」という有名な映画があって、
更にそのエンドロールで流れる「Where is my mind?」は俺の大好きなPixiesというバンドなのですが、
そのラストシーンが本当にとても美しいと思うんですよ。
で、その美しさがどういうことかというと、
色々な過程を積み重ねて来て、主人公と女が手を繋いで崩れ行くビル群を見ながら、主人公が「これからは全てよくなる」と女に伝え、画面も崩れて、ピクシーズ、キムディールのひんやりしたコーラスから始まるWhere is my mindが流れ始めて。
主人公たちの生死もはっきりしない(おそらく死んでいるのだけれど)、ただ観れば「ボコボコ殴り合って頭がおかしくなった人間がビルを吹っ飛ばして終わる」という美しくも何ともない破滅的な映像が、不安ささえ残す終わり方が、何故こんなに美しいのか、といえば、
この映画が主人公なりに試行錯誤を積み重ねて来て、それなりの結果が産まれたことを踏まえて、束の間でも「それよりも良くなることを信じたまま」、それまでの過程を全てぶっ壊す・吹っ飛ばすかの様な、良いものも悪いものも全て一掃してしまって、主人公がただ「次」を静かに切望し信じる様が端的に描かれているから、だと思うのです。

という風なシーンがこの「ウィアード」にも描かれていて、
物語の思いっきり途中のシーンなのですが、精神をやられた母親は精神病院の中で「美容院(のようなもの)」を営んでおり、兄妹が訪れても肉親とは認識出来ず、「お客さん」として相手する、三女アンジーが最初に一人で訪れた時には酷く独創的な髪形に切られてしまう、のですが、
兄妹が5人揃って再び彼女の元を訪れた時、まるでRPGのイベントでフラグを立てたかの如く、母の反応・行いは「微妙に」変わります。

その母の行動を受けた5人は、「ちょっと変な姿」になってしまうのですが、結果としてファイトクラブのラストシーンに似た様な、「積み上げて来たものを全てぶっ壊して、改めて自分達が家族である、兄妹であることに気付く」こととなるのです。それを受けて、

アンジーはきっとなにもかも大丈夫だと感じ
ます。
このシーンの美しさは、ココまで本を読んで来た人間にしか分かりません。
そして、ここまでのこの本と、このシーンと、そして祖母との再会と、その後の話と。それらは「家族となってしまったことが忌まわしい呪いであることと、家族として同じ家に産まれたことは全て祝福であること」が同時に描かれた美しい物語なのです

家族の神話として、普遍的な物語だと感じられる傑作でした。

PIXIESがスキ過ぎる人なのでこういう屋号になりました。

ウィアード、こういう世界観かと思ったんです。





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