特に、マンガは雑誌やWEBで「事前に読んだ」というライブ感が、「いつ紙の本を手に出来るだろう」と期待を膨らませてくれます。
…ただ、 オガツ先生に関しては、小学館・ぶんか社・朝日出版、と傑作を残しながらもほぼ単行本が出ておらず、うーん、出版社跨いでの単行本収録は無いよね…と諦めていたところの、劇画狼さんのパワー編集とその出版を実現したリイド社と。
ありがたいやらありがたいやらで涙が出るほど…などと前置きで持ち上げ続けるのも何だか気持ちが悪いので、とりあえずそれぞれの作品の感想をつらつらと書き連ねていきます。
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●はじめましてロビンソン
「ロビンソン」を背景に。(よく見る著作権表記無いけど大丈夫かしらん…)
ある事故をきっかけに夫が透明になっていく奇病に罹った、出産直前の夫婦。
お医者さんのリアクションから、俺はてっきり「透明病という病気があるSF的世界」の話と思い込んでしまったのですが、オガツカヅオ が描くのはあくまで現実。現実が地滑りし、垣間見える歪み。
この透明病がどういうものなのか、また二人の関係性は病状の進行と共にどうなるのか、という短編。
高校生の頃に、ラーゼフォンの映画を観て、女人とそう大した付き合いがある訳でも無いのに、「愛って、奇跡って、あるよね、あって欲しいよね…」みたいな感動・涙をしてしまったのですが、そういう感じです。
現実はどこまで行っても虚しく残酷なもの、なのですが、それでも「何か」信じても良いんじゃないか、と思い直させてくれる素敵な短編。
…「ロビンソン」、久々に聴いたら
「新しい季節はなぜか切ない日々で」(何故切ないかが分からなくなってしまう)とか、「ありふれたこの魔法で作り上げた」(旦那さんにとっては奇跡でもなんでも無い地道な積み重ねによる結末)とか、「大きな力で空に浮かべたら 宇宙の風に乗る」(些細な細胞の変化による日常の変化があったとしてもより巨大な巡り合わせの力みたいなものが幸せな結末に運んでくれる)とか、
なんかこの曲、このマンガのテーマソングみてぇだな!(或る阿呆の一言)
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●かえるのうた
雑誌掲載時のカラーの扉絵がとっても良く(流れとしても演出としても)、単行本になる時どうなるのかなぁ、と思っていたら、一つ前の作品から見事に雑誌風の導入!完璧!
カラオケで和やかに、かつ少し歪な雰囲気で、けれども楽しむ家族。不満げな長女にマイクを手渡すと、それはもう、健やかに「かえるのうた」を朗々と歌い上げてくれます。
ギャグ漫画で、たとえば『勝手に改蔵』とか『ピューと吹くジャガー』とかで、「わー!今週はカラーだから水着!セクシー!って扉はカラーで力入ってたのに、本編は手抜きかよ!」みたいな「扉絵を前提としたギャグ」回みたいなのが展開されることがありますが、
「扉を前提としたホラー漫画」は初めて見ました。
劇画狼さんはツイートで「自分は一度もこの単行本をホラー短編集とは言ってない、良い本を作っただけ」という風なことを仰ってましたが、
自分にとってはやはりコレは「ホラー」なんですよ。この「30ページ」という短い間に、3度のオチが読者を待ち受けます。
そうやって「自分の信じる現実を揺らされること」、それが「ホラー漫画の魅力」だと思うのです。
「かえるのうた」は、「マンガ表現」という枠組みにおいてもその斬新さでずば抜けてますし、「ホラー漫画」としても一級品だと思います。
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●猫のような
冒頭、排水溝の蓋を取り除こうとしている、二人組の少年。
どうやら、片方の少年のばあちゃんの助言?から行動している様なのですが…。
ちょっとイヤな言い方になりますが、「実話ホラー」のマンガとしての面白くなさって、「オチが透けて見える」ところにあると思うんですよね。
自分は心霊体験に一度も会ったことが無いものの、「霊的な世界」自体はあると思うのですが、それを「体験談」として描写した時、「良いことをした→良い結果が産まれた」「悪いことをした→悪い結果が産まれた」という、当たり前の流れを示されてしまうと、「生きているものと死んでいるものとでルールが共通してんのか…?」と不思議に思ってしまうんですよね。
オガツ先生の描く「霊的な存在」は其処がシッカリしていて、
「コチラ側のルールが当てはまらない」んですよ。
本作のエンジン「おばぁちゃん」はややボケており(半分アチラ側であり)、既に「ルールが変わりかけて来ている」ため、真意が分からない。
信頼すべき存在なのに、意図が分からない。
この「エンジン」は如何な結末を生み出すことでしょうか。
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●こくりまくり
小学生時分の名倉君が、自分のことを好きな女の子・木目米さんに、自身の好きなタイプは「霊の見える子」と告げてしまったがために、七年半後、木目米さんは異様な成長を遂げていた…。
「猫のような」をこの一つ前に配することで
「霊は存在するのか」「アチラ側とコチラ側は何が違うのか」といった問題に、この「こくりまくり」が解答を示すような、見事な配置になっています。
「アチラ側」のルールはやはり違うので、そのために「自分を捻じ曲げるのか」「自分の認識(世界)を捻じ曲げるのか」。
どちらの選択が正しいということは無いのですが、
この漫画の選択は酷く優しく。
仮に誰かの視点で「間違った様に見える」としても、
自分の信じる決して消えない光があるならば、それを求め続けてもいいのだ、と。
オガツカヅオ の「血の出ないホラー」、本領発揮の様な作品です。
"If a ten ton truck Kills the both of us To die by your side Well, the pleasure and the privilege is mine."
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●しあわせになりませう
結納を明日に控え、幸せになろうとしているカップル。
だが、いや、それだからこそ、気になっているものは解消したい、と女性がある告白をする。
「生霊が見える」と。
「恋愛」とか「性」をテーマにした作品に触れる時、
触れる前に「男と女と、性別は2パターンしか無いんだから、そんなに目を見張る様な斬新な人間の関係性なんて描けるもんかね」みたいな、見くびる視点で触れがちなのですが、
2パターンしか無い筈のところからおぞましいほど複雑な関係性を構築する作品だったりして、恐れおののくことがあります。(パッと思いつくとこで、ダンゲロスとか人間失格とかマルサイとかドグラマグラとか)
「しあわせになりませう」もそんな作品。
冒頭から不穏な空気を漂わせてはいるのですが、まさか兄達の関係性が「アレ」で、それを前提として「コレ」が「ソレ」になってしまうとは。
登場人物達にとっては堪ったものではありませんが、読む側としては快感を覚えるほどの人間性の迷路。
この人たちの迎える結末を、見たい様な見たく無い様な。
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●隣りのゾン美さん
「ゾンビ」。
アフリカ、ヴードゥー教を起源とし、おそらくロメロによって世界的な「物語要素」となった、怪奇ファンには見慣れた・魅力的な単語。
「隣りのゾン美さん」における「ゾンビ」も生きていない者ではあるものの、
流石オガツカヅオ 、ゾンビ映画からそのまま寸借はしなかった。
ゾンビをビジネスとする真魚子に誘われ、その世話をバイトとしてすることになったじんこ。
いわゆる「ゾンビもの」の様な、ヴァイオレンスさも死臭も無く、静かにゾンビの隣りに、ゾンビが隣りに居る物語が進行していきます。
「人では無いものによって、人の輪郭をクッキリさせる」という手法は、市川春子の作品群を思わせる心地よさ。
たまにはコメディでもスプラッタでもない、こうしたゾンビものがあっても良いんでないか、と思ってしまいました。
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●千年蟻と一日おかぁさん
ある家族の肖像。
事故から目覚めた母親。どうやら12年も経っていたらしい。
娘も夫もすっかり様変わりしてしまったが、ブランクを物ともせず、その家族は空白を埋める様に楽しい時間を過ごす。
「猫のような」が「こくりまくり」を光らせる様に、
「隣りのゾン美さん」がこの作品を輝かせます。
「人」とは何か。
「人」を定めるものは何か。
あるゲームのキャッチコピーで「最後の一撃は、せつない。」という名コピーがありましたが、
「千年蟻」、「ラストの1ページは、せつない」です。
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●よふさぎさま
「よふさぎさま」。扉絵だけ見ると、何やら、「女性が報われる話」なのかな、と思わせる雰囲気。ここまで収録されてる話、何がしかの暗い運命が降りかかって来ても人間の意志はそんなもの跳ねのけるんだ、みたいなイイ感じの話が多いですもんね。
違います(ある種違わないけども)。
オガツ先生はストーリーテラーではあっても、決して「イイ話」を作りたがるような凡才ではないんですよ。
小学生の時から結婚するに至るまで、ほぼ毎夜走っている知子。ある夜に出会った不思議な「モノ」を、親友の亜矢子は「女の運命が大きく変わる予兆を、いろんな姿でおしえてくれるの」と教えてくれた。
夜走ること・その途上で出会ったものの変革の予兆とすること。
それは彼女の人生の、大きな柱となっていた。
藤田和日郎先生は、
「あるキャラクターに劇的な結末を迎えてもらうために、強烈な業を背負わせる」
といった旨の創作術を述べられていましたが、
奇妙な柱を知子は背負わされたが故に、扉絵をも巻き込んでこの物語は壮絶な結末を迎えます。
ただ、オガツ先生が凄いのが、この物語の壮絶さが判明するのがラスト3ページのところから。それまでは「ちょっと奇妙なイイ話」だったのが、イッキに「ホラー漫画」へと変貌してしまいます。
月並みですが、「よふさぎさまなんてオカルティックなものより、生きてる人間の方が何倍も怖い」んです。
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●魔法はつづく
この単行本の表題作にして、もっとも比喩的な、暗喩的な、作品。
「僕とじんこは人を殺した 6才と11才だった」
誰を?どうやって?
人の罪と罰と魔法の物語。
「目を背けたくなるような人の罪」に対して、「痛ましい罰」と「全てを払拭する魔法」とをあまりにもサラリと描くオガツ先生の手腕。
「魔法を表すもの」は終わるんだけども、「魔法と表されるもの」は「僕」とじんこの生きていく上でずっと続いていく。
その様子を「死に場所を求める蛇」として表すオガツ先生の巧みさよ。
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●???
『魔法はつづく』、裏表紙に収録作品9編のタイトルと、象徴的な1カットが載ってますが、「魔法はつづく」のあとにもう1作入ってるコレについては目次を見て入っていること・タイトルがようやく分かります。
また、この作品を読み終えることで、この単行本の扉の部分が「分かる」ようになりますし、この作品がラストに配されてるのが分かることで、この単行本の輝き方が変わります。
良きにせよ悪きにせよ、生きている者にせよ死んでいる者にせよ、
「ずっと続く何か」を「魔法」と表す。
読んだ人の現実に作用する感覚は、格好付けて言うとマジックリアリズムなんですが、個人的には「ホラー漫画の魅力ってこうなんだよ!」と快哉を叫びたくなるような、
とっても気持ちがイイ単行本でした。
改めまして、この本を作るのに携わって下すった方、皆々様ありがとうございます。
ひねって、空中3回転、着地するような物語が好き。
➼俺はおならで泣ける様な話が好きなんだ「スイス・アーミー・マン」とちょびっと『へうげもの』の最終回。
なんだかんだ言ってイイ話、が好き。
➼「空気読め」の対極、私は「デクノボー」になりたい『月光条例 18』
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