Subbacultcha

「サブカルチャー」という括りの下、文学・芸術・漫画・映画等について述べます。

2018年9月30日日曜日

フリクリ、オルタナでやって欲しかったことと、プログレで良かったこと


フリクリが鶴巻監督で無く、別の監督で、
ガイナックスで無く、Production I.Gで
続編が作られてしまった!!一体どうなる!!!

とハラハラしておりましたが、個人的雑感としては、「オルタナ」は失敗、「プログレ」はギリ続編、て感じかなぁ。という感想です。

極力ネタバレはないつもりですが、劇場2作品既視聴者向けの記事というか愚痴というか、です。
※ネタバレアリ(展開を一部説明してますが、決定的な部分は避けてます)

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●フリクリオルタナ



「モヤついている高校生・河本カナ。嵐のごとく登場するハル子。その時カナの額にお花が生えた! 煙を吐きながら街をぶっ潰すアイロン。 毎日が、毎日毎日続いていくと思っていた… 力を手に入れたカナはアイロンをぶっ飛ばせるのか!?」
大まかなストーリーとしては、普通コンプレックスを抱える主人公・カナがハル子と出会い、彼女の三人の親友達と共にハル子が持ち込むトラブルに立ち向かい、友人達と理解を深めていき、己の普通さ→己を自覚する、という様な「モラトリアム克服物語」なんですが、それに対して、ハル子・N.O・MMが邪魔過ぎる。

監督のインタビュー記事を拝見すると、「分かりやすいフリクリがあっても良いんじゃ無いか」という柱で作られた作品のようなのですが、
カナを含む4人の女子高生の「分かりやすい物語」がフリクリと反しているかの様に、ハル子が「何を意図してるのか分からないけど目的のために全てを使い切ろうとするヤベェヤツ」から「分かりやすい話と分かりやすい話を繋ぐために動く人」に堕してしまってます。
分かりやすくても良いんですが、「コレ」やったら「コレ」になる、という安直な話は、今作登場キャラだけで完結させて欲しかった。
フリクリの持った「訳の分からない熱」≒ハル子は、単純に不明瞭な舞台背景への接続方法であったり、もしくは上手く具体的な形に出来ない意図や思考や感情の暗喩・代替表現であったからこそ、なんかよく分かんないけど熱い・面白かった、という感想や印象を思春期少年青年たちに残した訳ですよ。
一見すると馬鹿馬鹿しい「世界を革命する力を!」とか「颯爽登場!銀河美少年!」とかってセリフを言わせた榎戸洋司の、暗喩・比喩的脚本の力(でもそれらのセリフは表面的なもの以上の力を与えられている)。

昨今、「分かりやすいこと」であることの価値がインターネット・SNSの発達で叫ばれ過ぎています。「ぱっと見で分かること」、デザインの力や140字で面白いこと、3分で内容を把握できること、ってのにも価値があると思うんですが、
言葉を費やすことでしか伝えられないことはあるし、どうやっても簡単には言い表せない感覚はあるんですよ。文芸の力の低下が叫ばれる昨今ですが、それでも「文学」に力はあるんですよ。一冊の本を読んで、掛けた時間や読みながら逸れる思考や文章量や流れに頭を持っていかれる感じやらは、「分かりやすさ」とは無縁なんです。
「フリクリの分かりにくさ」の部分を「分かりやすく」したところで、もう、違うんですよ。

だから、色々このオルタナって映画、マズい点があるんですけど、最大のダメポイントとして、オルタナ・プログレ共通して、「ハル子さえ居ればどんなアニメでもフリクリである」みたいなものは柱として一本通ってるのでないかと思うのですが、その鉄筋で出来た柱を自分で壊して、新たに木で建てた上で、これはハル子ですフリクリです、って言われてもそりゃあ怒る。ただのオタク共には紙で柱を作ることすらままならんけども、それでも怒る。そんな柱建ててくれなんて頼んで無い、前からあった柱を大事大事に拝んでたかったんだよ、と。

で、分かりやすさを追求してエンタメに徹するならまだしも、変に作家性みたいなのを意識するもんだから、いらん「フリクリ」へのオマージュ(トランスフォーマーとの戦いや何の必然性も無いラップ語りは実験性でも何でも無く、「ぽさ」への媚びでしかない)やら、幼少期から付き合って来た友達と分かり合えずに終わるやら(そのホラーチックな描写が生きるのはハッピーエンドに持ってってこそだから!)で、フリクリ抜きにしても普通に映画として駄作なのですが、その上フリクリをレイプしようってんだから、もう不買です。フリクリがいくら好きでも、この映画に関するものは買っちゃダメです。映画を劇場に観に行ったのは仕方ないとは思いますが、この監督×フリクリ的なもの、がちょっとでも金になりそう、と製作陣に思わせるようなことをするなら、あなたはフリクリの敵です。

以上です。
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                                                 ●フリクリプログレ

「ハル子が分裂、ラハルとジンユに。その中でなんてことない日常を過ごすヘッドフォンの少女ヒドミ。彼女が轢かれた夜、クラスメイトの少年・井出の額から巨大ロボットが出現した!ハル子から分裂したラハルとジンユと出会い、〝特別なことなんてない日常〟が終わりを告げる―!!!!!」
…と、オルタナが0地点をぶっちぎってマイナスにまでビスケットハンマーを喰らわしてくれた分、「プログレ」はアニメとしても映画としてもとても良かったし、「フリクリ」だ!と感じられたので、繰り返すけどとても良かったです

「フリクリ」、主人公の小学生・タッくんは、無限に続く虚しい日常を嫌だなぁと思いつつも繰り返すことが人生である、みたいな小学生としては嫌な達観を持ちながらも「生きること(エロス)」を主眼に置いて生活していることから物語がスタートして、ほんで、いじめや自殺を匂わせるマミ美や、自分をベスパで轢く・ベースで殴り付けるなどするハル子なんかに囲まれ、破壊・殺意というネガティヴな感覚「死(タナトス)」に惹かれ、その感覚を呑み込んでいく、のに対し、
「フリクリプログレ」、主人公の中学生・ヒドミは無感情な毎日を送るも、夢の中では滅んだ世界の中で、自分含め周囲の人間がゾンビとなりお互いに喰らい合う、という暗い欲望「死」を抱えているんだけども、自分のことを気にしてくれるクラスメイトの男・井出、欲望を前面に押し出してくるラハルによって少しずつ「生」に近付いていく、という主人公の精神構造の逆転が起きており、おお、と心の中で拍手したのです。

とはいえ、プログレというほどフリクリの表現性を乗り越えられては居ないので、こっちを「オルタナ」≒こういうのもフリクリとしてアリなんじゃないっすか?という提案、にすべきだったんでないか、と。(とすると「オルタナ」は何にすべきだろう、ポストロ・パンクス・インプロとかはちょっと意識が高過ぎるので、ポップス、とかアイドル、とか?)

映像表現への挑戦は正にフリクリと言ってもよく、5話目だったかな?「フルプラ」という話で、水彩画・パステル画調で無理やりアニメーションをやるところは押見修造『ハピネス』のやり過ぎ絵画表現的漫画を思い浮かべましたし、その一個前の話だったかしら、プロによる静止画MAD、的な感じで「少女漫画っぽい感じで話を進め出すところ」はテンションブチ上がりでした。コレだけでもオルタナには出来ていなかった実験精神を感じたのですが、エライ!と拍手したのは、それらの実験表現がキチンと「物語描写」として、キャラクターの心理描写として機能出来ていたところ。この辺は、もし未読でこの文章を読んでいる方が居たら是非とも視聴して感じて頂きたく。

惜しいな、と思ったのは林原めぐみさんによる、ハル子の分身の片一方・ラハル。

「オルタナ」の結末によりハル子はラハルとジンユという二人の人間に分裂してしまうのですが、ラハルはハル子の欲望、ジンユはヒーロー性を司り劇中で行動、
ジンユは割と「化物語」の神原駿河ちゃん的歪みと正義の同居的キャラクターで沢城みゆきさんの演技もそれに近いのですが、
ラハルは「ハル子を演ずる新谷真弓っぽさを、林原めぐみが演ずる」という離れ業で成立するキャラクターなのです。

この「新谷良子っぽい林原めぐみ」は凄まじい再現度で、視聴者が声優という職業の凄さを存分に味わえる役所です。のですが…
劇中、「おお!ここから新谷真弓!…と思ったら林原めぐみのまんまやんけー、ガクッ」と気落ちするシーンがあります
「林原めぐみの新谷真弓コピー」はあくまで前座にして欲しかったんだよ、というほど、「ここまではラハル、ここからハル子」というシーンがあります。あるからこそ、「林原めぐみの新谷真弓コピー」が演出としての必要箇所ではなく、映画全体に対するネタでしか無かったのか、とガックリ来てしまって残念。

とはいえ、ヒドミ・井出・ハルコ(ジンユと合体したラハル、というハル子とは別キャラとして)の辿った結末は納得のいくものでした。

俺は女子高生だった事は無いので、「オルタナ」の描く「背伸びして大学生と付き合う子の気持ち」や「ファッション好きでデザイナー目指す子の気持ち」という「女子高生個別のケースに寄り過ぎた事象」は分かんないんですけど、
男であれ女であれ中学生だった事はあるので「中学生のモヤモヤした感じ」「ソレを吹っ飛ばしたい気持ち」の普遍性は自分が味わったからこそしっかり共感出来るんすよね。(また同じ様な事を書きますが、普遍性と個別性は両立しないんですよ。個別の事象の中にある普遍性を、あらゆる「表現」は明確なり不明確なり抜き出してこそ、なんです)

・実験的な映像(しかもそれが劇中の描写と噛み合ってて素晴らしかった「フルプラ」)
・思春期のモヤモヤした感じとそれとの対峙の仕方
・フリクリ という物語の補完、補強
・the pillowsの楽曲の、場面毎の良い噛み合い方

をきちんと描いてくれた・やってくれた。
故に「プログレ」はキッカリフリクリで、楽しかったです。
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●そもそもこの企画は何だったのか。

とはいえ。
「フリクリ」に続編があるとしたら、タッくんの成長後を見たかったんですよ、俺は。

「プログレ」に対しての文句はそれ程ない俺ですが、「タッくん」が「ハル子」とぶつかり合いながら成し遂げたあのエンディングに対して、今回の劇場2作におけるハル子は全くその影響・与えられた変化のようなものが全く無く、幾らその他の設定やキャラクターが受け継がれているとしても、「そこ」が無いが故に、「フリクリ」全てが過去として切り捨てられたようで悲しかった、というのが一番大きいです。
まぁそれがハルハラ・ハルコという女である、と言えなくも無いですが…。

で、二つ不満点。

まず音楽なのですが、18年経ってるので、ピロウズサイドもあれから滅茶苦茶新しい曲が出来てる訳です。リメイク曲を使おう、は全然構わんし、OVAなら気にならなかったのですが、オルタナもプログレも劇場作品で上映中に同じ曲使い過ぎ
「Thank you,my twilight」「白い夏と緑の自転車、赤い髪と黒いギター」「I think I can」「Last Dinosaur」それぞれ大名曲だと思うんですが、2時間半程度の上映中に、流石に3回とかはやり過ぎです。
フリクリの「Advice」「Ride on shooting star」なんかは、曲としてシンプルなのでちょっと時間を置けば繰り返し聴いても飽きが来ないような曲ですが、
前述の曲達は凝ったフレーズの重ね方だったり、強いメッセージの詞だったりで、何度も聴くには適してません。「twilight」も「ギター」も、それぞれ開始時にはうおおお!!とテンションが上がったものの、トンカツってそう何枚も喰えるもんじゃないんです。旨いけどさ。

と、作品擁護側の意見に、「思い出補正強過ぎ」というのを何度か観たんですが、
「フリクリ」というカルト的人気アニメの名前を冠してる限り、メインターゲットは思い出補正持ってるヤツじゃないとダメなんですよ
「新しい世代にも是非観て欲しい」みたいな無茶苦茶な擁護・賛成側の意見も観たんですが、「フリクリという昔ちょっと評価されたアニメの続編ぽいヤツ」を、フリクリ未見の若い世代がなんで観ようと思うと思うのか。
元から居るファンが、凄いアニメだぞ!ワーワー!って叫んで興味が湧いたとしても、そしたら続編ぽいなんかよく分からんヤツからでなく、初代観るでしょ。

それで新しい会社・新しい製作陣でやるんだったら、「トップをねらえ2」の描写の如く、フラタニティという言葉をちょっと出してみるなど、「ちょろっと漂わせる」程度で却ってオタクはありがたがってたんです。

ファンに媚びて続編を作るなら鶴巻和哉に素直に新作を作ってもらうべきだったし、
これまでのファンを焼いて切り離して新しい作品を作るならフリクリって名前にして欲しく無かった。

「プログレ」はギリ続編、て感じで、きっちり作られてるし、ピロウズがこのためにリメイク・書き下ろしやってる訳だし、まぁ観てみても良いんでないかと思うけど、
「フリクリは俺の青春の一部だ!」みたいな熱量が強い人は、却って観ない方が幸せなのかも分からんね、という長々書いたけど愚痴の様な駄文でありました。すみません。

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