Subbacultcha

「サブカルチャー」という括りの下、文学・芸術・漫画・映画等について述べます。

2013年12月18日水曜日

青年は荒野を目指す『月光条例 25』と「君の銀の庭」

ジブリ、高畑勲監督の「かぐや姫」は、「おとぎ話の姫」では無く、「人間・かぐや」を描いたもので、観ながら結構月光条例とリンクするなぁ、とか思いました。「演ずる」ところとか、「ただ一人の男との人生を思って泣く」ところとか。

『月光条例』の25巻のワンシーンがグッと来たのと、まどマギ映画のED『君の銀の庭』のCDを歌詞をじっくり読みながら聴いたらウワァ、ってなったので、何がその「グッと来る」ポイントだったのか、書散らします。

※ネタバレあり

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 「おとぎ話」キャラの攻撃が一切通じないどころか、むこうからの攻撃はすんなり通り、「消滅」させられてしまう「月の客」。超ズルい。
そんな彼らに対して、月光は「うちでのこづち」を使用し、
「月の客」どもが大満月の夜に<月の門>を通って帰るまで、オレ以外の世界の全ての「おとぎばなし」のキャラクターを、北極の雪の粒に変えてかくしてくれ
と願うことで、「月の客」からの「おとぎ話」界への攻撃を防ぐことに。
・・・防ぐ対象を「物語」にしておくべきだった気がしないでもないですが・・・。
そして、場面は一転戦場から北極へ。
北極にて、そこには雪の結晶からおとぎ話キャラの頭がニョキニョキ生えた、異様な集団が!

・「月の客」に対して「おとぎ話」キャラは無力である
・月光は重大犯罪者である、と仲間として受け入れなかった

という二点を置き去りに、おとぎ話キャラたちは
「皆で力を合わせれば月の客は倒せる!」
「状況説明をちゃんとしなかった月光はバカ!」
「月光は仲間を信じてない!」
「仲間を信じてないあいつはダメなやつ!」
「あいつは一人でヒーロー気取りかよ!」
などと割ともう、ガンガン月光を批判しまくります。

中でも声の大きかったイデヤに対して、一寸法師が体を張った鉄拳制裁を!

仲間仲間ってうるっせーんじゃよ!!
(中略)
口が立つ者がいつも正しい 
頭がいい奴、体の大きい奴がいつも正しい世の中じゃもんな!
じゃが、うまくしゃべれん者はどうなる!?
人に尊重されんスミっこの奴はどーなるんじゃ!?
(中略)
でも、大好きなんじゃ!『仲間』がな!
そんなあふれ出る『大好き』を、口でうまく言えなかったら
 月光のように全部背負い込んで、だまって行くしかないじゃろうが!!



そして血塗れになりながら、ほとんど誰の助力も無く、「月の客」に向かっていく月光。
それを上手いやり方で周囲に伝えられなかった彼が悪いと言えば悪い。
ただそれを「悪い」で一言で切り捨ててしまうのは、やっぱり悪いことだと思うのです。
「全部背負い込んで、黙って行かねばならない人」は「居る」のです。

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「君の銀の庭」は『新篇 魔法少女まどか☆マギカ』中の、ほむらと思われる視点から物語を俯瞰するような曲。

個人的に「グッ」と来たのはこの部分。


夢はこの部屋の中で 優しい歌をずっと君に歌っていた
何がほんとのことなの
一番強く信じられる世界を追いかけて
君の銀の庭へ


「優しい偽り」に取り囲まれて始まる本作。
「ケーキはだあれ♪」は見てるのが恥ずかしいくらいではあったけども、本当に見たかった優しい物語の断片でした。でもそれは偽り?
いや、それが偽りかどうかも分からないのですが、「優しい『だけの』歌」を信じ切れなかったからこそ、みんな(出演者・観客)が望んでいたはずの物語が、ほむらや杏子には「偽り」として打ち破るべき世界になってしまったのです。
そして、「ほむらが一番強く信じる世界」→「銀の庭」へ突き進んでいく。


 道に迷ったあの子が一番早く帰り着いた
正しさよりも明るい場所を見つけながら走ればいいんだね

そして、ほむらが選択した道のりは正しいものではなかった。
「明るい場所」を、自分が輝かしいと思うとても利己的なものをこそ、彼女は選択することにしたのです。
まどかを神から引き摺り下ろし、自分が神になることで、「人間・まどか」を取り戻す。
それはまどか自身の思いを踏みにじるどころか、まどかによって「救われた」と感じるすべての少女たち(さやかも含め)から「信仰の象徴」を奪い、破壊するということに等しいのではないでしょうか。
他の登場人物の、誰からも共感されない、ある種醜いほどの自己中心的な選択。

彼女の選択は、月光の選択と違って、他者を思いやってのものではありません。
ただ、「誰からも共感されない、利己的な選択」という点において共通するものがあります。
勿論イデヤが大声で言っていたように、「一人でそれを背負い込んで、決定しまうのはバカ」だと思うんです。
それでも、到達しなければいけない未来がある時、何もかもを踏み越えていかなくてはならない時が、あるのです。その時、誰からの共感・同意を得られずとも、やらねば、と思えるかどうか。「悪人」だと指さされてもそれに耐えながら歩けるか。自己陶酔に囚われず、自分の選択だと主張できるか。
一人で、黙って、行けるか。

そこがやはり僕たちが「主人公」になれるかどうかの境目の部分だと思います。


フォーククルセイダーズ - 青年は荒野を目指す


ひとりで行くんだ 幸せに背を向けて
さらば恋人よ なつかしい歌よ友よ
いま青春の河を越え
青年は青年は荒野をめざす
(中略)
みんなで行くんだ 苦しみを分けあって
さらば春の日よ ちっぽけな夢よ明日よ
いま夕焼けの谷を越え
青年は青年は荒野をめざす

ひとりで行くんだ 幸せに背を向けて
さらば恋人よ なつかしい歌よ友よ
いま青春の河を越え
青年は青年は荒野をめざす

人生において仲間は必要です。
ですが、結局のところ人間は一人なのです。
幸せに背を向けて、一人ぼっちで、青年は荒野を目指さねばならんのです。


テーマとしてはこの18巻と、共通するところ。
「空気読め」の対極、私は「デクノボー」になりたい『月光条例 18』

大声で否定する前に、ちょっと考えてみよう。
➼現代における罪と罰『ろりともだち』




フォーククルセイダーズも良いんですが、このアルバムの元気が出るカバー大好き。



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