Subbacultcha

「サブカルチャー」という括りの下、文学・芸術・漫画・映画等について述べます。

2016年10月4日火曜日

「聲の形」と「君の名は。」を何となく一緒に観た方が良いワケ。


普段、色んな人に対して、「自分はどちらかといえばマイナー志向ですね」みたいなことを触れ回っている癖して、「シン・ゴジラ」「君の名は。」「聲の形」と、今年のイケイケオタク邦画タイトルみたいなヤツ、3つとも観に行ってしまいました。
こっぱずかしい。
けど、もうそういうのをこっぱずかしいとかって歳でも無いので、パーッと思ったことを書き連ねます。
ちなみに、どっちもラストでちょっと泣きました。こっぱずかしい。

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承前

【聲の形】
 ・京都アニメーション作品に対して何となく良い印象が無い→キャラクター造型、演出、雰囲気、若いオタク向けコンテンツでしょ?→とか言いつつ「涼宮ハルヒの消失」はイイナーと思ってDVDまで買っている
原作は読んでた→割と好きだったけど、あんまり内容は覚えてなかった(おかげで、忘れていた、主人公の名前を。)
ボチボチ観に行きたい感はあった

【君の名は。】 
新海誠作品に良い印象が無い→とは言っても、観たのは「ほしのこえ」(ロボット出すならゴールを勝ち取りにいくようなヤツが好き)・「秒速5センチメートル」だけ。どんなに切なさを誘う様な抒情的な風景を作り出せたとしても、それが「受動的であったこと」「努力が足りなかったこと」の上に作り出されるものなら、それは美しくも何ともない、自分が観たい創作物ではない。
RADWIMPSを聴くのが辛い→活躍し始め、アルバム2枚目辺りは大好きなバンドだった。が、あまりに強い自己憐憫・自己愛を前提とした「愛」「関係性」とかをテーマにした曲が聴くに耐えなくて、成長するにつれて全く聴かなくなってしまった
興行収入100億円突破→売れ行きはともかくとして、「大作主義」みたいな下に作られた作品で、あんまり心に残るものが少ない。たとえば「シン・ゴジラ」は別段、ファー!面白かった!で終わったので、何回も観に行く人の気持ちがちょっと分かんなかった

まぁー、なんでしょうね。よくあるオタクの「批判を前提として鑑賞する」みたいな、イヤーなスタイルで観に行ったワケです。

感想
【聲の形】
・「無かったことには出来ない」けども「取り返すチャンスは必ずある」
→「いじめてた子が可愛く成長してしかも自分のことを好きになる」なんてファンタジーはやはりファンタジーなのですが、この『聲の形』が漫画としてヒットしたのは勿論そういう「ラッキースケベ展開」もあるけども、それ以上に「身に染みるところがある」からじゃないかな、と。
子どもがなんで子どもかと言えば、それは「自分の世界が狭いから」。自分と人との違いが認められなかったり、自分と人との境界線を破れなかったり。その結果、「いじめ」とか「引きこもり」とか「自殺」とか。
やられた側がそれをただ「過去」には出来ません。やった側が自分から「過去」にしていくのはますますダメです。でも、「頑張って両方が過去にする」ことで開けるものもある筈です。それが必ずしも良い現在・未来になるとは思いませんが、今読んでた花輪和一の『風童』が滅茶苦茶良いこと言ってたので、ちょっと貼っておきます。



「楽な方へ得する方へ…損して苦労しない方へ…それはどっちかなんて考えても分からない。楽な道に出たかったら…辛く苦しい方をとればいいんだ。自分をどうしたらいいか知らなくてもいいとしたら、どんなに気が楽か…」
「そんな了見ではうつけ者になってしまうんじゃないのか…」「そうかわかった。辛く苦しい方をとれば力がつくということだな。」
・キャラクターに生々しさがあった
→「君の名は。」に比べると、人間関係に重きを置いているせいか、劇中でキャラクター達が見せる言動・行動に、しっかり「生きて来たこと」が見え隠れするのがひじょーに良かったです。
「君の名は。」も勿論小技が利いてるな、という箇所は何個もあったんですが、如何せん「男子高校生がこんなシャレオツなカフェでバイトするか?」「こんな田舎でこんな垢抜けた感じになるか?」みたいなことを思っちゃってね…

じゃない、「聲の形」なんですが、たとえば主人公のショーヤが姪っ子のマリアがご飯を食べるのを手伝って挙げたりする「小さな挙動」。優しいにーちゃんで、それをユヅルに向けたりもするけども、過去は友人達と一緒になってショーコをいじめていた。友達の中ではお調子者・人目を気にして動く。
この吐き気がする様な、でも誰もが持つ二面性。
その連なりで出来ていく、複雑怪奇なドラマ。

・京アニ演出に泣いてしまった
→あくまでコレは「耳が聴こえない人を挟んだ物語」ではなく、「人と人とが関わり合うことには必ず成長と諦めが存在する」という話だと思っているのですが、
大分前に観た告白って映画で、AKBの楽曲が「空疎なものの象徴」的な使われ方をしてたんですよ。AKBの曲を聴いて、恐ろしい気持ちに襲われると思わなかったんですが、
「聲の形」においてはなんと!それにあたるのがフーの「マイ」(マイ、って言い方するんですね…最近知りました)!


楽しげな部分は嘘臭く、語るべき部分では音楽無しで。
そんな感じで続いていくテンションの映画ですが、最後の最後、主人公・石田ショーヤの視界(世界)が開ける→人間関係を前進させようと決めた→成長、という「音」を使った演出。劇場に観に行っていて、本当に良かった。「ハルヒ」で流れていた、サティを思わせる名演出。
あと、割と自分の名前がありふれた名前なので、劇中で何度も名前を呼ばれてモニョモニョした面持ちになりました。


【君の名は。】
・「忘れてしまう」けども「残るものも必ずある」
→入れ替わる入れ替わる。まぁードタバタラブコメ。入れ替わるシステムとか、細かい部分とか、いくらでも突っ込みポイントはあるんだけども、無粋
話はそこでなくて、人間が生きていく上で毎日色んなことを忘れていくんだけども、どうしても忘れたく無いことってのが必ずいくつかあるはずで、これももう何回引用してんだ、って感じのですが、スミス「There is a light〜」。

どうしても忘れたく無いもののために、あなたはどんな努力が出来ますか?もしくはしていますか?と問われる様な内容でした

・超現実的景色は心象風景か。
→っていう上記の様な話だけだと、割と陳腐なラブストーリーですねー、っへへー、って感じだったのですが、ともかく景色が美しい。都会の人間が思い描く美しい飛騨高山の山々、幻想的な雰囲気の神社、田舎の人間が思い描く理想の新宿。
全てが現実以上にキラキラ輝いていて、現実にある土地を舞台としながらもその土地を越えた美しさを追求しようとする風景の数々。
コレを、ほーん、新海誠映画やねー、と流しても勿論良いんですが、記憶は必ず五感とともに残るもの。匂い、手触り、音、そして視覚
スゴい好きな映画の一つに「落下の王国」ってのがありまして、

少女が男にせがむおとぎ話の世界を、全て実際にある風景で再現したれ!というターセム監督の意欲作なのですが、ともかく出て来る景色が非現実的で。
あまりに美しい景色の数々、でもそれは嘘ではなかった、私が世界を守る、という少女の強い台詞に、トレーラー観るだけで、もうね、涙腺刺激されちゃってね…。

対話相手も含めた、キラキラした世界。…ん?恋?
って取っても良いんですけども、とりあえず美しい景色が、「忘れたく無いもの」として登場人物たちと渾然一体となり、視聴者の涙腺へ突撃を仕掛けて来るのです。景色が、説得力を増させている。
キャラクターを人に任せて、背景に回ったってのがかなり+になってると感じました。
あ、そうそう、こういう感じ。

「設定の穴で、ストーリーに没入出来なかった」
「全部忘れて物語だけ楽しむには物語の力が足りなかった」
という感想を何個か目にしましたが、自分としては「些細なことを全部些細なものとして振り切るのに、この景色の美しさが必要だった」と思えるほど、美しい景色・映像体験でした。

・RADWIMPSええやん
→主題歌を聴いた人が「バンプかと思った」という声を挙げるのをたくさん耳にしましたが、まぁそれはそれとして、バンプの歌だと比較的「世界へ捧げられる歌」が多い印象です。で、ラッドはあまりにも相手に接近し過ぎて、自己愛か他者愛かよく分かんなくなるほどの異様な距離感(君が神だったり、君がイブだったり、君が僕だったり、君が世界だったり、君がルールだったり)が特徴のように思うのですが、上手くそれが噛み合う、異様なカップルの物語だった。がために、かなりRADWIMPSの曲が功を奏しています。
バンプだったら、世界救うために伝説の異能力手に入れてた。
…ただ、「前世」は曲単体はキツい、挿入曲としてしか聴けないかなぁ…。


興行収入100億円
→「誰でも認められる価値観」「誰でも面白く感じられるストーリー」ってのはスゴい。新海誠作品にあった「後ろ向きな感覚」を、無理矢理ねじ曲げたのか、新海監督の中で転換があったのかは分かりませんが、多分「そこ」が既存の作品と違うのかな、と。ラストが、どーせまた新海エンドだろ!と思ったら、後味のよい終わり方で、ああああ良かった!報われた!!

で、なんでそれを一緒に観た方が良いのか。
全く話のスケール感が違う作品ですが、
「やってきたことが良くも悪くも積み上がっていく」
というのが一つの大きな結論に感じられたのです。

どうすれば相手への壁を突破出来るか?
言ってしまえば全ての物語は一人では成立しないので、「関係性」によって物語は発生する、と考えます。関係性が作れなかった・関係性を作りたい・関係性が作れた、物語ってそんな感じ。
「君の名は。」も「聲の形」も、「ラブストーリー」というよりは、「相手を理解したい」「相手に触れたい」という「関係性の物語」です。

俺は「君の名は。」を観てから「聲の形」を観たのですが、どちらにも部分部分で、非常に共感出来るところがあって、なんというか、誰だってカワイイ女の子とお喋りしたいんですよ
で、その喋りたいのに邪魔する壁として、「君の名は。」だと世界が邪魔して来て、「聲の形」だと人間関係が邪魔して来るのです。
その邪魔を必死で乗り越えようとする主人公にどれだけ自己投影出来るかってところで感動度合いが大きく違って来るのですが、多分、いや、出来たら、俺と同じく全くどちらも観てない方なら「君の名は。」→「聲の形」ルートを辿って欲しいです。

全く話のスケールが違うからこそ、
壮大なスケールの「君の名は。」の、世界や時間を乗り越えてでもただ相手に触れたいという欲求(微妙に性欲とは違います)叶えんとする主人公の必死さの何処かに少しでも共感出来るところが見つけられたら、
「聲の形」の主人公が、何を乗り越えようとしているのかがより体感的に分かるんではないかと思うのです。

別段「聲の形」を「君の名は。」の結論としろ、ってえことではなくて、何を人生の要点とするかってところで、たきくんとショーちゃんからそれぞれ改めて感じ入って欲しい、という話なのです。



あんまり関係ないですが、このタイミングで「蟹の形」出したら絶対ぽーんと売れるで!!と商魂たくましくしていましたが、未だ特に売れる気配はないです。

SFは勢い。
➼キルカ、キラレルカ。「キルラキル」について触れながら語る『カエアンの聖衣』

好きだからってちょっと書き過ぎて読み辛い
➼タイムスキップコメディはSFラブロマンスへ『星屑ニーナ 4』、あと時間ものSFの色々とか





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