Subbacultcha

「サブカルチャー」という括りの下、文学・芸術・漫画・映画等について述べます。

2011年8月2日火曜日

言わない事、言えない事『ふたりの証拠』



2011年7月27日、日にちは微妙に違いますが、レイハラカミ、小松左京の訃報と共に彼女が亡くなった事を知りました。
人はいつか死ぬという事が頭では分かってはいるのですが、
何とも言えぬポッカリ感というか、無くした感覚は、
近い人だろうが遠い人だろうが「知っている」というだけで感じてしまいます。

そういえば買ったのに読んでなかったな、と思って、
彼女の著作『ふたりの証拠』を読み始めました。



『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』という彼女の代表三部作の内の真ん中が本書。
悪童日記だけ大分前に読了しており、すっかり話の筋を忘れていましたが、『ふたりの証拠』は十分に一冊の本として独立して面白い本でした。

リュカとクラウス。
この名前を聞いて何か思い出した方は多分合ってます。
『MOTHER3』というゲームの主人公たちの名前は、この三部作の主人公双子の名前からとられています。
この三部作は、双子である「ぼくら」がどのように生き、どのように別れ、どのように再会したかを綴った物語です。
そして、大きな特徴として、「正確では無い言葉は使わない」というルールが存在します。
それは作中の主人公達によって定められるルールなのですが、
つまり、感情・気持ち・憶測・比喩・暗喩といった「事実ではない言葉」が一切登場しない小説群なのです。


『悪童日記』においては、主人公達を含め周囲の人間は固有名詞を持たず、
一人称は「ぼくら」という複数形で語られます。
この作品のラストで二人は自分達ではっきりとそれぞれの思いを固め、
別れる・分かれることとなります。

そして、『ふたりの証拠』の開始時、
「ぼくら」は初めて「リュカ」と「クラウス」という名前を獲得して、
別々の人間である事が自覚的・客観的に示されます。
国境の向こう側へと「行った」クラウスと、
そのまま其処へ「残った」リュカ。
本作では残ったリュカについての物語が語られます。


「ぼくら」であることを失ったリュカには、もう何もない。
美しい青年に育ったリュカではありましたが、
彼には目指すべき将来も、愛すべき家族も、人間的な欲望も、
何も持たない街の影の様な存在として人々に「白痴」と呼ばれながら、
家に暮らし、農業を営み、それでも何とかギリギリに人間的な生活を送っています。

しかし、突然の闖入者によって、リュカにも一つの希望が示されます。
其処から始まるのは、リュカの、人間としての再生の物語。
戦争によって色んなモノが歪められた街の中で、
色んなモノを失った人間達と共にリュカの、リュカ個人としての物語が漸く幕を開けます。

けれども「正確ではない言葉」を、「甘っちょろい言葉」を排した
アゴタ・クリストフがそんなに甘甘なストーリーを描く筈も無く。


僕達人間には、「美しい」とか「楽しい」とか、
うまく完全には言葉で表せない感覚的なモノがいつも心の中に存在しています。
うまく言い表せないモノだから、色んな言葉を借りて来て
「天上の如き至福」とか「ヴィーナスの嬰児のように美しき」とか
色んな思いを言葉に託します。

しかし、その過程で何かをサボってないか。
本当にその感覚を心に刻みつけたか。
言葉選びに耽溺しているだけではないか。
クリストフの描く『ふたりの証拠』は、全く感情表現が排されているにも拘わらず、読者の心に揺さぶりをかけてきます。
何故こんなに「カッコいい言葉」を使わないのに、心を締め付けられるのか。


『悪童日記』においては、感情表現が排される事で、子どもの子どもならではの残忍さ・冷酷さが強調され、衝撃的な印象をより強めていました。
しかし、本作『ふたりの証拠』においては、その技法は喪失感や悲しみを強調する為のワザとして作用しています。
そういった感覚は、完全に人と共有する事は出来ない為、ついつい私達は「カッコいい言葉」を使って、より自分だけのものとして大事に大事に心の中にとっておこうとします。

甘い。

この本の最後で、今までの物語が一気に引っくり返されます。
それでは今まで描かれてきたモノは何だったのか?一体誰の語りだったのか?
早いとこ『第三の嘘』も読まなければ…。


結局色んな事を当事者以外が語る事自体がナンセンスであるという事。
➼全ての言葉を軽薄なものへ堕する『孤客 哭壁者の自伝』

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