Subbacultcha

「サブカルチャー」という括りの下、文学・芸術・漫画・映画等について述べます。

2011年12月7日水曜日

「共感」という力の源について、フーゴは何に勝ったのか『恥知らずのパープルヘイズ-ジョジョの奇妙な冒険より-』



西尾維新による『OVER HEVEN』が発売される前に、
上遠野浩平によるジョジョノベライズ『恥知らずのパープルヘイズ』について思った事など。

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本作の主人公は、表紙を見ても分かる通り、
ジョジョの奇妙な冒険 第五部「黄金の風」の主人公チームとして登場するパンナコッタ・フーゴ。

ジョジョファンの間では、「スタンド能力強過ぎて、ラストバトルに参加させられなかったんじゃ…」などと噂をされるほど、主人公チームの中で唯一ボスとの戦闘にまるで神の意志であるかのように全く関与せず、チームメイトと別れた場面が最後の登場となってしまった可哀想なキャラ。

知的なのに、ブチ切れると一番ヤバい、というキャラ造型に魅力を感じた人も多い筈。

「神」の意思によって一番大事な場面で居なかった彼は、果たしてどんな心境からボスとの戦いに参加しなかったのか、そして参加しなかったことで彼のその後はどうなったのか。
これが本作で描かれます。

個人的には壮大な帳尻合わせって気がしないでも無い。




実際には居たであろう、しかし本編には登場しなかったキャラクター達が登場し、
新たなスタンド、新たな仲間や敵とフーゴのスタンドバトルが繰り広げられます。
新登場キャラ、アンジェリカ・アッタナシオちゃんは吐血可愛い!


ちなみに登場するスタンドが全てジミヘン縛り、というちょっとしたギミックもアリ。
また、登場するキャラクターが既存の別のキャラクターとちょいちょい関係していたり、アイテムが共通していたり、とファンサービス要素満載。
乙一さんもですが、上遠野さんもジョジョが好きでたまらないご様子です。


で、何が書きたかったのかというと、内容紹介では無くて、
作中でフーゴが何故勝てたか、ということ。


5部、フーゴが仲間たちと断絶するシーン。
何故ナランチャは迷った挙句、別に好きでも無い女の為に組織を裏切る事が出来たのか。
ほとんど知らない彼女に対して、「トリッシュはオレなんだ」とまで断言出来たのか。
フーゴにはそれが分からなかった。

そんなフーゴに、冒頭・ミスタは言い放ちます。

「おまえは正しかったとも言える。現にブチャラティたちは死んじまった。同行しなかったおまえだけが生き残っている。(中略)ディアボロとジョルノの凄まじい戦いの中で生存できた可能性はゼロだったはずだ。オリコーさんだったからな、おまえは。その辺の判断はさすがだったよ」


作者が認めるほどの「最凶」のスタンドを持ちながら、フーゴは何故オリコーさんで居られるのか。
「スタンド」とは、精神エネルギーが具現化したモノ、という説明があります。
ではフーゴは持ちスタンド「パープル・ヘイズ」そのままに、いつもフシュルルル…と唸りながら獲物を探しているようなバーサーカータイプの人間か、というと全くそんなことは無くて、どちらというと理知的な参謀タイプの人間です。
そんな人間であるにもかかわらず、時折、「パープル・ヘイズ」じみた狂気をチラつかせることがある。
フーゴ登場時、ナランチャに勉強を教えてやっていたものの、一向に覚えが悪いナランチャに対してブチ切れたフーゴ先生は、彼の右頬にフォークをブチ込むッ!!
読者が、フーゴが社会生活に適応出来てるか心配するレベルのヤバさでしたね。

戦闘シーンで敵に狂気をぶつけるならともかく、日常生活の場において、仲間であるナランチャに対してその狂気をぶつける。
仮にも理知的である筈のフーゴというキャラクターは、何故「パープル・ヘイズ」を発現したのか、といえば彼の本性が「無意識的な狂気」であり、日頃はそれを抑圧している為ではないかと考えられます。抑圧することで、彼は何とか社会生活に順応していた。表面的には理知的なキャラクターとして。「パープル・ヘイズ」という自身の人格に対して、フーゴはこれまできちんと向き合うことなく生きて来たのです。
自身に対して向き合う、ということは「ジョジョの奇妙な冒険」では度々キーシークエンスになっていて、「スタンド」という能力が自身の精神から発現するものである限り、それは当たり前の論理なのです。
にもかかわらず、フーゴはこれまで本当に心の底から自身と向き合う事無く生きて来た。
故に、ナランチャが踏み出せた「一歩」も、彼は踏み出す事が出来ず、踏み出せた者達の気持も理解出来なかった。


感情を柱にして闘う際に、やはり「自身に潜むモノ」を発見することは重要な課題です。
たとえば藤田和日郎漫画、『からくりサーカス』。

文字通り、「祖父の思いをその身で受け継いだ」後の主人公・勝。

この漫画では「他者を理解すること」によって、新しい道が開けていたように思います。
で、その「他者理解」とは=「同一視」ではありません。同一視とは過分な思い込みであり、自分を守るための防衛機構、いわば自己完結した「逃げ」に等しい。
つまり「ヒーローなりきり」が痛々しく見えるのは、それが自己完結しているためです。

そうではなくて、何故新しい道が開かれるのかといえば、
「共感」とは文字通り相手を共に感じる、つまりあくまで「自分」と「相手」という心理的距離を取りながらも、相手の立場に立って、相手の思うこと・考えること・感じることを、相手と同様に感じようとする、理解しようとする、自身の心の動きだからです。いわば、相手を素材にして、自身を発見する、ような。

だからこそ、この『恥知らずのパープル・ヘイズ』において、

(シーラEは……ぼくだ。彼女の怒りは、ぼくの怒りだ……!)

フーゴがシーラE(新登場キャラ)に対して共感した時、かつてのナランチャの選択に共感出来た時、彼は目前の敵と共に、「一歩を踏み出せなかったかつての己」に対して、打ち勝つことが出来るのです。



余談。

「能力というのは、本人の性格を反映する。精神が変化すれば、能力も変わるんだよ」

ということらしいですが、どちらかといえば僕は吉良さんや恒一君の例から鑑みるに、追い詰められて、発狂、精神が分裂することで、新たな能力を発現するんじゃないかなぁって思いますが、どうなんざんしょ。
あと、散々書きましたが、小説単体で素晴らしい!ディモールト・ベネ!ってものではないです。あくまで「五部既読の人向け」の小説ですので、お気を付け下さい。


荒木先生の映画論。ジョジョの源流が伺えて面白い。
➼死を思え、恐怖を思え『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』

藤田先生の現在の連載作品。「アツさ」はジョジョなんかと通じるモノがあります。
藤田和日郎の描きたかったドラマはココに在る『月光条例 14』


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