ある夫婦の織り成す地獄絵図。
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章構成で出来ているこの映画は、
まず最初の「プロローグ」において、夫婦が夜の営みの最中に、ベビーベッドから這い出して来た息子が窓を開けて転落死するところから、悪夢のスパイラルに巻き込まれていきます。
その営みからして、局部にぼかしが入っているだけで「そのまま」映し出されます。
そして、小さな息子が窓を開けて転落死する瞬間も「そのまま」。
描く必要性の無い、観た人に苦痛を味あわせるような素直さ、それがラース・フォン・トリアーの持ち味であり、俺が彼を嫌いな理由です。
しょっぱなから、それを感じさせるシークエンス。
ただ、落ちていく息子、お互いを感じ合う夫婦、窓から吹き込む雪、部屋に舞い込む風、これらの動きをスローモーションとモノクロによって捉えているのですが、それが絵として非常に美しい。
エグイ状況を創り出すこと・絵として非常に美しい場面を創り出すこと、両方に長けているのも、またラース・フォン・トリアーの作風。
次章「悲観」、
息子を失った母、妻を演ずるシャルロット・ゲンズブールは、その日を境に段々と精神的に弱っていきます。
倒れた彼女は病院にいくものの、夫、ウィレム・デフォーはセラピストである自負から彼女を退院させ、自分で治療することを決意。
彼女の病状の元が、昨年、彼女が論文を書く為に、息子を連れて籠りに行った「森」にあるのでは、と考えた夫は、彼女を連れて二人でそこに治療を行いにいく。
治療をする為に訪れた筈の森で、妻はどんどん精神に変調を来していきます。
導入部である「悲観」の章では「息子を失った母が悲しみのあまりおかしくなっていく様」が描かれているようなのですが、
そこから先の「苦痛」「絶望」「三人の乞食」においては、「息子の死というイベントをきっかけに、夫婦の相互理解という表面的な皮が剥がれていく様」がどんどん描かれていきます。
一見すると、「おかしくなっていく妻を懸命に支える夫の姿」がそこには描かれているのですが、しかし、なんでこんな状況になっちゃったか、っていうと「夫が自分の思想や意見を家族に無理矢理押し付けていたから」っぽいんですよね。
妻が、息子に対して、虐待を行っていたのでは、という事実が明かされるシーンがあるのですが、それを招いたのも、「夫の無関心」が原因だったんじゃね、と。
その「原因」の部分を無視すると、
影では息子を虐待していたとか、終盤辺りに妻が夫を陥れる状況とか(SAWも顔負けのゴアシーンあり!)、
トリアーが色んな所で書いてる通り、『ANTICHRIST♀』、アンチクライスト=サタン=女=女の本質といえるほど、女って怖いね、みたいな女性バッシング映画です。
が、俺の少ない聖書知識でこの映画を参照するならば、
アダム=夫、イヴ=妻、蛇=息子
が、この映画の図式なんではないかと思いました。
元来、人間は不死の存在だったらしく、エデンという、まぁいっつもポカポカして、ほどほどに食料もあって、素っ裸でヘラヘラ笑いながら暮らせるような場所が地上にあったんですが、
ある日、イヴさんが、神様から食べちゃ駄目よ、と言われていたリンゴを、蛇の誘いによって食う。
実はそれは「知恵の実」で、イヴさんは色んなことを理解してしまう。羞恥心とか、悪意とか、そんなん。で、一人でその「知恵」という重荷に耐え切れなくなったイヴさんはアダムも唆してリンゴ食わせる。二人して知恵が芽生え、不死の存在たる無垢さが無くなったので、神様は怒ってエデンから二人を追い出す。
という風に理解していますが、
これを元に「女性は悪の本質だ」とか「男を堕落させるのが女だ」なんて言う人も居るらしいのですが、俺はそれちょっとおかしくね?と思うんですよね。
そんな何人も居る訳じゃねぇんだから、一人の女の行動くらいしっかり見張っておけよ、しっかり女と向き合えよ、蛇の付け入る隙を与えたのが自分だとは思えんのか、そして女の誘いに乗った自分の責任は無いのか、と。
息子の死=蛇によるリンゴの誘いによって、
妻は自身の現状を体感的に把握し(それはある種誤魔化すことで順応していく社会からの解脱とも言える)=リンゴを食べることで知恵を付けて、
その妻に続いて夫も今まで必死で維持して来た家族関係・夫婦関係から抜け出していく=不死性(永遠に続く理想的な日常)を失ってエデンを追い出される
というのがこの映画じゃないかなぁ、と。
ちなみにその抜け出していく方法が、キリスト教の教義的に絶対アウトな「アンチクライスト」の部分では無いかな、と思いました。
うーむ、でもこういう解釈だとどうしてもラストシーンが蛇足なんよなぁ・・・。
ただ、上記したように、息子=蛇だとしても、息子=悪ではありませんし、妻=悪でもありません。
終盤の妻・ゲンズブールの苛烈さはどうみても、映画史に残るような悪役っぷりではありますけどねw
作中で言ってたような気がしますが、「善悪という価値観は存在しない」と。
「自然」=「本質」=「ネイチャー」には善悪なんて有り得ないのです。ただそこには「ある」ものと「ない」ものしかない。
女性バッシング映画や人間バッシング映画では無く、
ラース・フォン・トリアーの描く(思い込んでいる)本質を、しんどい思いしながら共有する、そんな映画が本作では、と思います。
別にいやらしい意味で言ってるんじゃないですけど、そうした実存主義的な部分を描く際に、性交場面の「ぼかし」は邪魔だったなぁ、と思います。
画面が「自然」で溢れるように作られているのに対して、そこだけどうしても「不自然」が覆い被さってる感じなんだよなぁ・・・。
だからといって、輸入無修正版(あるかどうか知らんけど)を購入してもう一度観たいような映画でも無いんですけども・・・。
映画自体は好きだけど、やっぱりこういうのを作れるラース・フォン・トリアーが、俺は嫌いだなぁ。
キリスト教的、西洋的なモノとの対極。
➼日本的空間に痺れる『赤い雪』
良質な、恋愛漫画。
➼当人にとっては大スペクタクル『トゥー・エスプレッソ』
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