Subbacultcha

「サブカルチャー」という括りの下、文学・芸術・漫画・映画等について述べます。

2018年6月12日火曜日

俺はおならで泣ける様な話が好きなんだ「スイス・アーミー・マン」とちょびっと『へうげもの』の最終回。


「スイス・アーミー・マン」、何かダニエル・ラドクリフが便利な死体を演ずるらしい、というなんとなくの話だけでもう盛り上がってしまっていたのですが、
そういう「ゲテ要素」以上に、何というか「神話」的な要素が盛り盛り詰め込まれていて、しかも胸に来る、という物凄い大好物の映画だったので、
とりあえず「死体が大活躍する変な映画である」というのを聞いて嬉しくなる様なおバカなみなさまには是非とも観て頂きたい、超絶素敵変映画なのです。

※ネタバレアリ(展開を説明してますが、決定的な部分は避けてます)

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無人島で遭難し、ニッチもサッチもいかなくなり、首を吊って死のうとしているポール・ダノ演ずるハンク。
いよいよという所で浜辺に一人の男が流れ着き、孤独から救われると思い、必死で介抱しようとするも、彼は死体であった…。再度絶望し、自殺を再開しようとすると、死体はすさまじい勢いで屁を吹き出し始め、元来た海へ戻って行こうとするので、思わず「置いてかないでくれぇ」とハンクは死体に取り付き、紐を絡めると、死体はケツから吹き出すガスにより、ハンクを背に乗せて無人島を脱出した…。

…え!?あれ、サバイバルじゃなかったのか!もう無人島脱出したじゃん!!!
とビビった所でタイトルコール。間違えてないです。脱出して辿り着いた先は、おそらく大陸なのですが、どこか分からん森。この森にて、「二人」のサバイバルが始まります。

ここまでのダニエルラドクリフは、本当に「ケツからガスを猛烈に出すだけの死体」なので、あれ?コレ人形でいんじゃね、ハリポタのイメージぶっ壊してまでラドクリフにやってもらう必要無いんじゃね…?などと疑問符が浮かび始めた所で、
唐突にハンクによって「メニー」と名付けられた死体は、喋り始める。ビビって、ハンクはメニーをぶん殴って逃げ出すも、徐々に流暢に喋り始めた彼に対し、ハンクは様々な教育を行うこととなる。

冒頭に「神話的な要素が詰め込まれている」と書いたのですが、
この映画、おそらく狙って、滅茶苦茶寓意が込められてるんですよ。

そのひとつがまず、この
死体に対する教育」。
メニーは記憶喪失者などでは無く、「一度死んだ後、何らかの偶然で喋り始めた死体(ゾンビですら無い)」であり、

・身体を自分の意思で動かせない
・ゼロからのスタートなので復活出来る記憶が無い
・外界に対する知識が全く無い

という無い無い尽くしで、どうやってじゃあ喋り始めたんだってところはハンクの真似をしてたら何か出来た、という非常にあやふやな存在なのですが、
ハンクは彼に喋り方を教え、生物としての仕組み・人間のあり方・社会通念・大まかな思想など、「全て」を教え込んでいきます。
≒幼児教育

また教え込むことで、メニーには自我らしきものが芽生えていくのですが、彼は自分の思い・やりたいことをハンクに伝えようにも、
対人関係における自分の立ち位置が分からない・自分では身体を動かすことが出来ないためハンクの力を借りなくては自分の欲求を達成出来ない。
≒重度障害、要介護老人

肉体が一応死んでしまっているので、恋≒愛≒性の感覚が分からないメニー。
けれども、たまたまハンクが見せた、ケータイの壁紙「ある女性」の写真から、鼓動を打ち始めるメニーの心臓。復活フラグかと思いきや、それは一時的な反応だったのですが、
心臓と共に隆起する彼のペニス(!?)。ズボンの下で暴れ回る彼のペニスは、どうやらその女性(人間)の居る場所を指し示す、レーダー、アンテナとなったらしいのだ!!!!(???)

スマホは電池が切れそうだし、同じ視覚刺激ではボッキを維持出来ないし、で、ハンクはメニーにお願いされたこともあり、森に落ちていたゴミなどで女装をし、見事にメニーを反応させることに成功する。
≒服装倒錯

実務的な意味合いが無いでもないけれど、「ある女性」との関係の発展を夢想し始めたメニーに対し、ハンクは超絶DIY技巧により、バスやパーティ会場、映画館などを制作(!?)、デートに誘う特訓などのシミュレーションを始める。
ここに至るまでも、メニーの腹に水を貯められることを発見し、水筒やシャワーとして使用するシーンが登場するのですが、
のちのち、水中で酸素ボンベとしてメニーを使う(「シェイプオブウォーターやんけ!」と感情の置き所が分からなくなる美しい場面)際だったり、疑似恋愛シチュエーション下で見る女装のハンクの美しさだったり、友人として親密にパーティを行う二人の様子は非常に
男性同性愛的

ハンクにより、対女性とのコミュニケーションの取り方や、恋≒愛≒性の感覚・素晴らしさを、知識としても雰囲気としても学んでいくメニー。
のちに、ハンクはやや性嫌悪的な傾向があることが分かるのですが、
メニーはハンクとの輝かしい日々(女装をしたハンクを見ながら音楽を聴いていた瞬間とか、彼が振り向いた瞬間とか)を回想しながら
自分にはオナニーは肉体的にも感覚的にも分からないけど、それはきっと素晴らしいことで、たとえばバスの窓から出した手に触れる風みたいな気持ち良さなのではないか
という表現・説得をしたことに
俺は勝手に、谷川俊太郎の「生きる」「なんでもおまんこ」という詩を脳内関連付けしてしまいます。


「死体に対する教育」、
もうひとつ大事な要素がハンクという「どこにでも居る若者の弱々しさ」。

前情報をほぼ入れずに観に行ったので、てっきり「スイス軍人が死体をどうこうして無人島を脱出する話」だとばかり思っていたのですが、

スイスアーミーナイフ=十徳ナイフ→スイスアーミーマン=十徳死体

って意味のタイトルでした。
映画中で説明されるハンクの社会的な立場としては

・彼女は居ないが、ケータイのトップ画像は有名人や家族などではない「ある女性」
・母親は早くに亡くなり、父と二人暮らし

くらいで、どんな職業かとか交友関係とかはっきりした年齢なんかはさっぱり分かりません。苦境に文句を言い、孤独な状況から逃げたいと願い、目の前の相手に希望を担保するも全部は渡せない、卑怯で何処にでも居る小市民(何故か「無茶苦茶器用」ではありますが)。

彼の抱える孤独感から、終盤、この物語が客観的に観て、現実なのかハンクの妄想であるのか分からなくなる場面が出て来ます
彼の主張に対して、向けられる第三者の目線は
異常者・犯罪者への目線

中盤のパーティーシーン、メニーの告白シーンなどが美し過ぎて、この場面が余りにも急転直下、生々しく恐ろしい。観客も急に現実に引っ張られて、俺などは怖くて目を背けたくなりました。(旧劇場版エヴァのラストが思い起こされます)

それでも、その後に待つエンディングは、
どんなに弱くとも「自分自身の現実が現実である」とハンクが力を振り絞って現実に対して戦いを挑んだことに対する、ご褒美の様な、素敵な終わり方をさせてくれます。良かった。

そして、当初やって来た時の様に、ケツからガスを噴き出して、海へ戻っていくかの様なメニー。…嗚呼、こんなに涙腺を刺激してくるオナラがあろうか!!
≒漂着神信仰、客神信仰。日本では特にクジラの死骸とか土左衛門を、大漁を呼ぶものとする「えびす信仰」として知られます。引き上げて丁寧に埋葬する・もしくは海から来たものとして飾って船に乗せてまた海に戻すなど、別れ方には地域差がありますが、「外からやって来たものに対して丁寧に応対すると福がある」は世界の様々な文化圏で見られる共通項。
メニーがやって来て、ハンクに様々に楽しい思いをさせてもらい、ハンクによって教わった状態で、また海に還っていく。その「教わった状態」がまた重要項なのですが、ああメニーは神様だったのか、これは神話だったのか、と思うと、またジーンとしてしまって。

で、もう一個。これは寓意というかなんというかですが、
劇中の音楽」。
基本的に二人しか出て来ないこの映画は、その「BGMの発生も二人から」。ハンクの鼻歌が徐々に豪華になっていくとか、メニーの口を動かすのが楽しい口遊び(赤ちゃんっぽい)が音楽に発展していくとか。
まぁ、それ口だけだと無理じゃろ!という発展具合にはなるものの、何も無い所から産まれて来た様な音楽
≒文化はゼロの状態から産まれる≒文化は何処からでも産まれる
ことを指し示す様にも。ハンク自身の技術力が向上して行ったり、メニーを使うのが上手くなっていく毎に、音楽も広がりを見せていく様な構成を持って居ました。


で唐突に、「泣ける屁」で思い出して、
山田芳裕『へうげもの』最終25巻の話を挟むのだけど、
 この漫画、織田信長とか秀吉とか家康とか、諸々格好良い武将がたくさん出て来て、その格好よさの所以が何たるかってーと「どんな窮地に到っても自分らしさを貫き通す」ところにあったのですね。

たとえば、斬り殺される織田信長は胴体を両断されてるのに斬る相手に対して不遜さ・傲岸さを捨てずに器の巨大さを見せ付けたし、
明智光秀は結局贅沢な趣向を凝らす秀吉にも何事にも面白さを追求する古田織部にも価値観を寄せられなかったけれども最後の晩餐となる荒縄の味噌汁に花と箸置きを飾ることで飾らぬ実直な人柄の良さを見せ付けたし、
で、それらの格好良い人物とは対照的に、古田織部は徹底して「格好良く無いこと」を貫いていくことで抜きん出ていくんですな(武士的価値観に重きを置かぬこと・自分の物欲を剥き出しにしていくこと)。

「へうげたことにおいては圧倒的に家康よりも秀でている」と思い込んで居た、織部。そんな彼が爆笑させられてしまった「家康のあじか売り」。
侍としての格で、つまり格好の良さという評価基準において、信長・秀吉・家康にはハナっから勝てない・勝てよう筈もないと思って居た織部は、どうしても「家康の格好良くなさ」には勝ちたかった。

それ故に、最後の山場で、いや「最後の見せ場がクソを漏らすことである主人公」となった古田織部。
そこだけすくい取るとどんなバカ漫画かと思われるだろうけど、こんなに泣けて・格好良いウンコタレは他に無いよ

だから声を大にして言いたいのは、
おならであれ、うんこであれ、その一発にこれまで歩んで来たものを乗せた時、それは人の胸を打つのだと、それは「神話」に成り得るのだと、言いたい

…少しずれますが、糞土師・伊沢正名さんという方が居て、「うんこは汚いだけじゃない、土となり、全ての生命を育てるのだ。うんこは地球を作り、地球を救うのだ。」という旨のお話を伺いました。
一番汚いとされるものも突き詰めると、この世を動かす真理があるのだ、というのが、神話足り得るということだと、思って頂きたい。


コッチも長くなってしまったけど、要はネガティヴなエネルギーが、全てを前進させていくのに感動した、という話。
➼ネガティヴは現実を喰い破れるか。『グレイテスト・ショーマン』『テイルズオブベルセリア』『皇国の守護者』

あと、藤田和日郎作品の中では評価が低い作品ではあるけれども、途中の「デクノボー」の話はあまりに身に沁みた。
➼「空気読め」の対極、私は「デクノボー」になりたい『月光条例 18』

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